豆鳥の巣立ち

旅と小説とその他もろもろ

中欧の旅 まとめ

<中欧の旅の時系列>

 一区切りがついたので、中欧の旅についてまとめておこうと思う。

 まず、記事の順番について。アウシュヴィッツのことから先に書いたので、どんどん逆行していってしまったので、もしかしたら読みにくかったかもしれない。それに、年ごとに記事をまとめたが、実際は都市を行ったり来たりしていたので実際の順路とは対応していない。なので、改めて時系列に並べ直しておく。

 

日本→プラハ

 プラハ カフカを探して

 プラハ ストリート・パフォーマーたち 

プラハ→クトナーホラ

 クトナーホラの珍スポット

クトナーホラ→ブルノ

 日本の地方都市ブルノ 

 このブルノ観光記はあまり役にたちません

ブルノ→ブラチスラヴァ(実はちょっとだけウィーンに立ち寄る)

 ブラチスラヴァはアートで素朴な街

ブラチスラヴァブダペスト

 ブダペストでの災難 

 ブダペスト、独断と偏見のおすすめベスト3

ブダペスト→ウィーン

  ウィーンで本場のオペラを4ユーロで観てきた(前編)

  ウィーンで本場のオペラを4ユーロで観てきた(後編)

ウィーン→クラクフアウシュヴィッツ

 アウシュヴィッツ博物館で考えたこと

 クラクフプラハ

 プラハ 2つの広場と3人のヤン - 豆鳥の巣立ち

プラハ→チェスキー・クルムロフ 

 絵本の世界への入り方 チェスキー・クルムロフ

チェスキー・クルムロフ→プラハ→日本

 プラハ ミュシャのステンドグラス 

 

<かかったお金>

 次に3週間の旅行でかかったおおよその金額を記載する。だいたいこのくらいだという目安にしてほしい。

 

 航空券 104,000円(トルコ航空イスタンブール経由)

 宿代   48,000円(20日分 ドミトリーとシングルが1:4くらい)

 食費   14,000円(21日分 レストランにはほとんど行かなかった)

 交通費  20,000円(市内、長距離含む)

 合計  186,000円+お土産など

 

 中欧はたしかに西洋と比べたら安いけれど、それでもけっこう費用がかさんだ。食費はホテルの朝食バイキングで腹をもたせていたので、かなり抑えてあると思う。ホテルに関しては、ぼくが行ったときはオフシーズンだったので、比較的安い値段で泊まれた。ハイシーズンはこの倍にはなると考えてもいい。

 そこそこいい部屋に泊まって、食事もちゃんとしたものを食べるとするならば、3週間で230,000~280,000円くらいは必要になりそうだ。

 

<旅行でやり残したこと>

 十分旅行を楽しんだつもりだが、やはりやり残したことがいくつかある。

 ひとつは、11月17日のビロード革命記念日にプラハに訪れられなかったことだ。民主化から20年以上経ったいまも、チェコの人々(そしてスロヴァキアの人々も)は民主化運動の犠牲者に哀悼のろうそくを灯したりして、この日を特別なものとして扱っている。その様子をぜひともこの目で見たかったけれど、クラクフからの長距離バスが取れなくてその日に行くことができなかった。それがいますごく公開している。

 もうひとつは、プラハ国立美術館にあるミュシャの『スラヴ叙事詩』を見そびれたことだ。聖ヴィート大聖堂のステンド・グラスですっかり満足してしまい、彼の最晩年の代表作の存在をすっかり忘れてしまったのだ。もし再びプラハを訪れることがあれば、真っ先にその絵を見に行きたいと思う。

 

プラハ ミュシャのステンドグラス

<旅の終わりを告げるなにか>

なん年もかけた1人旅でも、7泊8日のパッケージツアーでも、最後には必ず旅の終わりを告げるなにかに出会う。それを目にしたとたん、直感的に「ああ、終わったんだ」と虚脱感とも安心ともつかない喪失感を覚える、なにか。

たとえば、『深夜特急』の主人公にとっては、ポルトガルサグレスの海がそれに当たる。彼はロンドンに向かおうとする間際、急にこのまま旅を終わらせていいのかと疑問を抱く。そこで、一路進路を変えてイベリア半島の最南端の町ザグレスへ向かう。それが本当の意味で最後の旅先であると感じながら。そして、その町の海辺のホテルで広大な大西洋を見たことによって、彼は1年半に及ぶ旅に終止符を打とうと決意したのだった。

帰国の数日前から、ぼくも彼と同じようにずっとその瞬間を探し求めていた。わずか3週間程度だったものの、それを実感しなければ旅が終わらない気がしたし、旅に出た意味もないように思えたのだ。

 

<アルフォンス・ミュシャ

 けれど、そう簡単にドラマティックな旅の終わりが訪れるわけがない。むしろ、ぼくはプラハでなん日もだらだらと過ごしているうちに、新鮮味も驚きも感じなくなっていた。気づけば、あっという間に帰国前日になっていた。このままなんとなく日本に帰ることになるんだろうな。そうやって半ばあきらめかけていたときに、なんとなく足を運んでみた場所があった。新市街地にあるミュシャ美術館だ。

 アルフォンス・ミュシャチェコ語の発音ではムハ)の名前にピンとくる人も多いだろう。彼は19世紀後半から20世紀初頭にかけてパリで流行した「アールヌーヴォー」の巨匠として日本でも人気が高く、現在も『ミュシャ展 パリの夢モラヴィアの祈り』という巡回展が行われている(2014年1月現在)。だが、ぼくはそれまで彼の名前はおろか、アールヌーヴォーというムーブメント自体よく分っていなかった。美術館に行ったのも、ただのヒマ潰しに過ぎなかったのだ。

 けれど、そこに展示された彼の作品を目にしたとたん、ぼくはその場から動けなくなってしまった。プラハに来る前に、ぼくはウィーンやブダペストにある美術館で、フェルメールラファエロレンブラントなどそうそうたる巨匠の作品を目にしてきた。それらの絵画はたしかに素晴らしく、芸術性の高さに心が洗われた。けれど、いま眼前にあるミュシャの作品は違った。芸術性の高さうんぬん以上に、彼の作品が発する強烈な力にぼくは惹きつけられたのだ。

そもそも、ミュシャの作品の大半はリトグラフという製法で作られたイラストなので、絵画と比較すること自体間違っているのかもしれない。だが、彼の絵に描かれた女性らには、画法の違いを越える魅力があった。特に当時「世界でもっとも有名な女優」と呼ばれたサラ・ベルナールをモデルとした初期の作品には、宗教画の聖人や肖像画の貴婦人にはない、女性の艶めかしさと芯の強さが感じられた。モデルが女優であるからだろうが、そこに描かれた自然体かつエネルギッシュな女性像はきわめて現代的であり、そこに親近感を覚えたのかもしれない。それに、彼の絵の特徴や雰囲気は、竹久夢二や最近の日本の漫画となんとなく似ている。いや、似ていると言うよりも、それらはミュシャの影響を多分に受けているのだろう。近代以降、日本人はヨーロッパの大衆文化に憧れ、模倣してきた。ミュシャの作品はまさにその象徴であるからこそ、いまでも日本人の間で人気があり、ぼくも目を奪われてしまったのだろう。

 

<旅の終わりを求めて>

 美術館自体は小さな画廊という感じで、30分もあればすべての作品をじっくり観て回ることができた。でも、ぼくは1時間が過ぎてもそこを後にすることができなかった。もう、プラハの街には、この場所の他に惹きつけられるものがないように思えたのだ。

 ぼくは駄々をこねるように、展示作品をなん周も観て回った。そうしていると、やがて学芸員や他の観客から不審な目を向けられるようになった。仕方がなく、ぼくはギャラリーを離れ、併設されたミュージアムショップに入った。

そこにはミュシャの絵が描かれたポストカードやマッチ箱に加え、なぜかカフカグッズも置かれていた。ここでカフカ博物館のチケットを買うと半額になるそうなので、おそらく業務提携かなにかをしているのだろう。お土産の中には、日本語で書かれたミュシャの解説本も置いてあった。なんとはなしに手にとって、ぱらぱらと眺めてみた。するとその中に、プラハ城の敷地内にある聖ヴィート大聖堂ミュシャが作ったステンドグラスがあるという記述を発見した。それを目にしたとたん、ぼくの心臓は高鳴った。

これだ。これこそが、ぼくの中欧の旅に終わりを告げるなにかなのだ!

解説本には文章しかなく、ステンドグラスがどんなものなのかは分からなかった。でも不思議なことに、ぼくはそうに違いないと根拠のない確信していた。実物をこの目で見さえすれば、異国に来たことを後悔しなくて済む。そして、心置きなく旅を終えることができるのだろう、と。

ひさしく感じたことのなかった熱が体中を駆け巡り、まるで恋人にでも会いに行くかのような期待と不安で息をするのも苦しくなっている。ぼくは急きたてられるように美術館を後にし、聖ヴィート大聖堂に向かった。

 

聖ヴィート大聖堂のステンドグラス>

 長い石畳の階段を登り、もうなん度も足を運んだプラハ城に入る。けれど、ただなんとなく来ていたこれまでとは異なり、今回ははっきりとした目的がある。城の中庭では、家族連れが写真を取り合っていたり、恋人たちがなにやら談笑したりしている。1人旅のぼくには、彼らのような楽しみ方はできない。どう楽しむのかも、どこに行くのかも、全部自分次第だった。ならば最後も、自分が納得できる終わらせ方でないといけない。

聖ヴィート大聖堂の前も、観光客であふれていた。その様子を前にして、脳裏に一抹の不安がよぎった。こんな誰もが訪れる定番の観光名所で、本当に旅を終わらせることができるのだろうか? けれど、後には引けなかった。もうここにしか、その可能性は残されていないのだ。ぼくは意を決し、ただ1人神妙な面持ちをしながら中に入った。

 

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 聖ヴィート大聖堂

 

 大聖堂の中はうす暗く、ひんやりとした空気に満ちていた。多くの人がいるのにもかかわらず、厳粛な雰囲気が漂っているのは、この場所に眠る歴代のボヘミア国王らへの敬意を、彼らが無意識のうちに表しているからだろう。

高さ34メートル、幅60メートル、そして奥行き124メートルというこの強大な建物は、そもそも14世紀に着工された。しかし、その後のフス戦争や資金難の影響で、最終的に完成したのは1929年、聖ヴァーツラフの生誕1000周年のことだった。

ミュシャがステンドグラスを描いたのは、完成から2年後の1931年のことだ。そこには、スラブ民族キリスト教を広めた聖キュリロスと聖メトディオスの生涯が描かれている。また、ガラスに直接油彩を乗せているので、通常のステンドグラスよりも鮮やかかつ緻密な仕上がりとなっている。と、解説本には書いてあったけれど、そんな知識は正直どうでもよかった。ただただ、ぼくはその姿を一刻もはやく見たくて、盲信と言ってもいいほど切実な心境に陥っていた。

ミュシャのステンドグラスは、入口から見て左側の3番目のものらしい。だが、ここで問題が生じた。ステンドグラスに通じる通路の前にはゲートが設けられており、近くで見るには入場料を払わないといけないようなのだ。調べてみると、入場料は最低でも250コロナとある。このとき、ぼくは100コロナしか持ち合わせていなかった。

 1度ホテルに戻るべきか。でもそんなことをしたら、この熱は冷めてしまって、もうどうでもよくなってしまうのは明らかだった。やっぱり、このままグダグダで帰国しなければならないのか。そうあきらめかけていた矢先、またあることに気づいた。

入り口の少し前にあるスペースで、なん人もの観光客がスマートフォンやデジカメで写真を撮影しているのだ。なにごとかと近づいてみて、その理由が分かった。そこからステンドグラスが見えるのだ。離れているし、柱に隠れて見えない部分もあるけれど、それだったら入場料を払わなくても済む。ぼくは最後の望みをかけてそのスペースの一番奥まで進み、ミュシャのステンドグラスに目を向けた。

 その瞬間、ぼくはまた動けなくなった。聖堂の外から差し込む光に照らされて、ステンドグラスは色鮮やかに輝いている。角度も距離もあったので、細かいところまでは目にすることができない。それでも、ミュシャの絵が放つ圧倒的な存在感が、ぼくの胸を振るわせた。この絵を見るために、ぼくはいくつもの国を巡ったのだ。そう思わされたほど、そこには3週間に及ぶ旅行のすべてが収斂されていた。そして、これでぼくの旅行も終わったのだと、悟らされもした。

観光客の雑踏も聞こえないまま、ぼくはその至福の時間に酔いしれていた。ステンドグラスの写真は撮らなかった。この感動は、もので記録できるものでは決してないからだ。だからこそ、この光景を頭に焼きつけておこうと、ぼくはただ1人、いつまでもその場に立ち尽くしていた。

 

<帰国 あとがきのようなもの>

 翌日、ぼくはプラハを後にした。1度イスタンブールで飛行機を乗り換え、日本に着いたのはその次の日のことだった。中欧と比べると、日本は格段に暖かかった。

そして、周りには日本人しかいなく、彼らが話していることも街の看板に書かれていることもすんなりと理解できだ。そんな当たり前の状況に、ぼくは安心するよりも戸惑ってしまった。中欧では自分が他人とは異なる存在であると見た目からも明らかだったけれど、ここでは自分と他人との違いがほとんどないように思えたのだ。

けれど、その違和感も、なん日かしたらすっと消えてなくなってしまった。ぼくは以前の日常生活に再び順応しはじめたのだ。だが、それと同時に、旅行の記憶も徐々に薄れてしまい、本当に自分はそんな体験をしたのだろうかと疑ってしまうようにもなった。

そこで、ぼくは当時のことをこうして文章に残そうと決めた。一応下調べをしているけれど、中には記憶違いから間違った情報が含まれているかもしれない。でも、ここに書かれていることは、ぼくの目から見た旅先の光景であることはたしかなのだ。

この文章を読んでも、旅行案内としては参考にならないのかもしれない。でも、旅をしているときのあの皮膚感覚を思い起こしてくれる人がきっといるはずだ。そんなことを願いながら、ぼくは記憶を遡り、筆を走らせてきた。

 

 今回で中欧の旅行記は最後とする。次回からは、その旅行の前に行った2ヶ月ほどの東南アジア周遊記について書こうと思う。興味がある方はぜひそちらも読んでみてほしい。

 

プラハ ストリート・パフォーマーたち

プラハのストリート・パフォーマーたち>

 前回は堅苦しい文章になってしまったので、今回は少し軽めの内容にしようと思う(とか言って、文体は堅苦しいままなのだが)。

 プラハの街を散策していると、美しい街並みだけでなく、いたるところにストリート・パフォーマーがいることに気づく。驚くほど高難度な技をしている人もいれば、なにをしているのかよく分らない人もいて、非常にバラエティ豊かだ。今回は、そんな日本ではもうほとんど見なくなったパフォーマーをなん人か取り上げながら、ついでにいくつかの観光地の紹介もしようと思う。ただ、パフォーマーの中にアイフォンのカメラを向けたら金をせびってきた人がいたので、トラブルを避けるために写真はあまり撮らなかった。そのあたりはご了承願いたい。

 

<旧市街広場の動く彫像>

たびたび紹介している旧市街広場には、建物や天文時計だけでなく、ストリート・パフォーマーもたくさんいる。ある日はバルーンアートをしている人がいて、次の日には子供の体くらいはある巨大なシャボン玉を作る人がいた。

日替わりで色んな人が現れるが、ほぼ毎日見かけるのは彫像のフリをするパフォーマーだ。全身を金や銀色にコーティングして、ポーズを取りながらひたすらじっとしているが、観光客が近づいた瞬間に機械音や幼児が履く靴のようなぴよぴよ音を出して動き、相手を驚かす。プラハの街中には本物の彫像が多いこともあって、近づかなければ見分けがつかないほど、どれもクオリティーが高い。

ただ、彫像のパフォーマーはブラチスラヴァやウィーンなど他の観光地にも出没しているので、数都市を巡った後だと見飽きてしまうかもしれない。ただ、寒い中防寒着も着ずにじっとしている彼らのパフォーマンスは、尊敬に値する。休憩時間に塗料をつけたまま普通に煙草を吸ってホットワインを飲んでいても、御愛嬌として見逃していただきたい。

 

<カレル橋のオルガン弾きのおじさん>

 プラハにはモルダウ川に架かる橋がいくつかあるけれど、その中でも1番見どころが多いのは、カレル橋だ。全長520メートルにも及ぶこの石橋は600年以上もの歴史を誇り、欄干の両側には計30体の聖人像が並んでいる。その中には日本人がよく知るフランシスコ・ザビエルのものもある。日本では教科書に出てくる人とか、頭がつるぴかの人というイメージが強いが(失礼だが、事実)、カトリック圏では偉大なる聖人として名高いのである。

また、夜のカレル橋も美しい。橋の上からライトアップされた橋塔やプラハ城を目にすれば、その息をのむほどの美しさに酔いしれることができるだろう。

 

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となりの橋から眺めたカレル橋

 

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 ザビエル像。ザビエルを洗礼先のアジア人たちが担いでいる。

 

f:id:chickenorbeans:20131103174420j:plain  夜のカレル橋。奥で光っているのは橋塔。

 

 もちろん、このカレル橋にも多くのパフォーマーがいる。旧市街広場にいる人らと少し違うのは、パフォーマンスをして客を呼び寄せた上で、絵葉書や雑貨などのお土産を買ってもらおうという作戦のようだった。中でも、写真に写っているおじさんは日本のガイドブックにも載っているほど有名だ。おじさんの手前の台みたいなものはオルガンで、演奏をしながらポストカードを売っているようだ。ただ、なぜ猿の人形を置いているのかはよく分からなかったが。

 

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 オルガン弾きのおじさん。猿がいる意味はよく分らない。

 

プラハ城の演奏家たち>

 カレル橋を渡ったら、次はプラハ城に登ってみよう。14世紀のカレル4世の時代に現在の様相を呈したこの城の敷地内には、ロジュンベルク宮殿や聖ヴィート大聖堂など様々な見どころがある。けれど、建造物についての解説はこれまでなん度も書いてきて食傷気味なので、ここでは変わり種をご紹介したいと思う。

 あまり知られていないが、城の中には郵便局がある。実は、その郵便局から郵便物を出すと、プラハ城限定の消印を押してもらえるのだ。ちょっとした旅の記念として、ここから知り合いに手紙やポストカードを送ってみるのもいいだろう。なお、郵便局の場所は第3の広場の門からそのまま右側に歩いて行ったところにあるが、かなりひっそりとしているので見落とさないよう気をつけてほしい。

 

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 このような消印を押してくれる。たしか、エアメールで30コロナした。

 

 また、プラハ城の城門では、天文時計の仕掛けと同じに毎正時に衛兵の交代式が行われる。一寸の狂いもない衛兵らの動作はまさに見物だが、直立不動の彼らの周りには常に多くの観光客が集まっているので、式の20分ほど前には城門付近にいないと間近で見ることは難しそうだ。

 

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 交代式。人が多くてあまり見れなかった…。

 

 その交代式のとなりで、楽器を演奏するパフォーマー集団がいた。ぼくの知識不足で名前は分からないが、どこかで聞き覚えのある軽快な曲を演奏していて、交代式を見に来ていた観光客から多くの拍手や小銭を捧げられていた。

 

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 プラハ城のパフォーマー楽団。

 

 城にいたるまでの長い階段の途中には、なぜかボブ・ディランを弾き語りするおじさんもいた。いかにもギター1本で世界を放浪しているような人だったが、彼の歌はものすごく、下手だった。でも、不思議とそれがかえって味があるからか、ぼくが見たパフォーマーの中では、彼が1番小銭を稼いでいた。

 

<物乞いのおばあさん>

 プラハ城では、少し考えさせられる光景も目にした。ボブ・ディランのおじさんの近くに、物乞いをしているおばあさんがいたのだ。おばあさんは神に祈るように地面に顔を伏せて、身動きもせず通行人からの恵みを待っていた。けれど、彼女の前に置かれた缶詰の空き缶の中には、2、3枚ほどの小銭しか入っていなかった。

おばあさんを前にしてぼくが思ったのは、仮にお金を捧げるとして、パフォーマーと物乞いとどちらに渡せばいいのかということだった。彫像のパフォーマーと物乞いのおばあさん。それに、お金を払いはしないけど、衛兵も。彼らに共通しているのは、自らの生活のために「じっとしている」ということだ。行為としては同じことなのに、彼らの間には大きな開きがある。そこには、決して自分自身の力では埋め合わせることができないものがあるような気がしたのだ。

だから、一芸を身につけていない人にお金を渡すのは単なる甘やかしだと、簡単に切り捨てることができなかった。けれど、だからと言って渡すのは単なる偽善で、根本的な解決にはならないのではないかとも思えた。とは言え、この寒さの中ではせめてあったかい飲み物を買うだけのお金でいいから渡すべきではないだろうか……?

そうやって、しばらく悶々と考えた後、ぼくはパフォーマーと物乞いのどちらにも払わないことにした。結論を出したというのではなく、その疑問の答えはどれだけ考えても答えが出そうになかったから、半ば投げ出したようなものだった。でも、そのとき覚えたもやもやとした気持ちは、その後の旅行の間もずっと続いていたのだった。どうもぼくは、旅行を楽しめるほどにはお金の使い方や生き方にまだ自信が持てていないようだ。

 

<おまけ 浮遊術の使い手>

 このように、人が集まる観光スポットにはたいていストリート・パフォーマーがいるので、彼ら目当てに市内散策をするのもいいかもしれない。お金を渡すかどうかについてだが、別に強制ではないので、自分が本当に感動したときや、細かいお金があるときにだけ渡せばいいと思う。もちろん、渡さないからといって非難されはしないから、ぼくみたいにあまり考え過ぎなくても大丈夫だ。

 

 最後におまけを1つ。観光スポットでもなんでもないただの道に、写真に写っているようなパフォーマーがいた。正面からだと分かりづらいが、上の男性は下の男性が持つ棒だけを支えに、宙に浮いているのだ。いったいどんな仕掛けがあるのかはまったく見当もつかないけれど、彼らストリート・パフォーマーのおかげで、この街にいる間、観光客は飽きるということを忘れられるのだ。

 

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 ブラッド・ピットみたいな男が宙に浮いていた。

 

プラハ 2つの広場と3人のヤン

<旧市街地と新市街地>

 プラハの中心部は大きく分けて5つの地区に分けられる。モルダウ川の西岸にあるプラハ城周辺のフラッチャニ地区と、その城下のマラー・ストラナ地区。東岸にある中欧最古とも言われるユダヤ人地区、そして旧市街地と新市街地だ。これらの大部分は「プラハ歴史地区」として1992年に世界遺産に登録され、四六時中観光客でにぎわっている。

 このうち、観光の目玉は旧市街地に、プラハ市民の生活の中心は新市街地に集中している。また興味深いことに、この2つの地区は似たような構造と歴史がある。どちらも中心地に広場があり、「ヤン」という同じ名前の別の男が讃えられているのだ。今回はこれらの地区を比較することで、プラハの街の歴史を探ってみたい。

 

<旧市街広場とヤン・フス

 まず紹介するのが、前回の文章でも紹介した旧市街広場だ。ここでは11世紀ごろの商業発展を機に様々な建物が建設され、まさにプラハの歴史を縮小した場所であると言える。これから広場にある有名な建造物をいくつかご紹介しよう。

 

①    ティーン教会

 広場の東側にあるな2本の塔が特徴的なこの建物は、ティーン教会である。ここは1135年に建てられたのだが、当時は外国の商人の宿泊施設に併設された程度のものに過ぎず、現在の荘厳な造りに改装されたのは1365年のことである。なお、ティーンとは税関を意味するらしく、もともと教会の裏側に税関があったためその名前がつけられたらしい。

 

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 奥にある2本の塔があるのがティーン教会

 

②    天文時計

 旧市庁舎の下に設けられた天文時計は、プラハを訪れた観光客が必ず訪れると言っていいほど有名だ。

上の円はプラネタリウムと呼ばれ、地球を中心に回る太陽や月などの天体の動きを示している。下の円はカレンダリウムで、占星術などでよく使われる黄道12宮を表しており、周縁に設けられた輪が1日にひと目盛りずつ動く仕組みになっている。

そして、この時計1番の見どころは、毎日9時から21時の毎正時に起こる伝統的な仕掛けだ。長針と短針が0時を指した瞬間、プラネタリウムの横にある死神が鐘を鳴らしはじめる。同時に、中央上部にある天使のとなりの窓が開き、そこから12使徒が次々と顔をのぞかせる。観光客がそれに見とれていたら、ふいに最上部に鶏が現れてコケコッコーと鳴き、塔の上でトランペットが演奏される。最後は周りに集まった観光客の割れんばかりの拍手で、仕掛けは幕を閉じるのである。

 もちろん、その仕掛けだけでも楽しいが、前回もご紹介したとおり、旧市庁舎にある礼拝堂は結婚式場として人気があるので、運が良ければ当日式を挙げる新郎新婦の姿を見かけることになるだろう。ぼくのときもそうだった。仕掛け時計が動くのを待っていると、突然白いリムジンが現れて、中から新郎新婦が現れたのだ。そして、12時ちょうどの仕掛けが動き、鐘の音が鳴ったと同時に、2人は熱い口づけを交わしたのだ。周りにいた見ず知らずの観光客たちも彼らに盛大な拍手を捧げ、なんとも絵になるロマンティックな一幕だった。そのときの様子が、この動画である。

  


プラハ 天文時計 - YouTube

 

③    聖ミクラーシュ教会

 写真の左側にある白い壁の建物が聖ミクラーシュ教会である。設計者はキリアーン・イグナーツ・ディーンツェンホファーというやたら長い名前のボヘミア・バロックの巨匠で、18世紀に完成した。教会の中は荘厳な天井画やバロック様式の彫刻などが置かれており、夏にはコンサートなども開かれる。

 ちなみに、聖ミクラーシュとはサンタクロースのことで、チェコでは12月5日のミクラーシュの日はクリスマス以上の盛り上がりを見せる。その日は街中が仮装した人であふれ、さながらハロウィンのようであるそうだ。

 

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 左にある建物が聖ミクラーシュ教会。右の手前にあるのがヤン・フス像。

 

④    ヤン・フス

 聖ミクラーシュと同じ写真の右側にあるのが、ヤン・フス像である。

ヤン・フスは15世紀の宗教改革の先駆者で、カレル大学の総長であると同時にベツレヘム礼拝堂の説教師も務めており、当時のチェコの人々から絶大的な信頼を得ていた。しかし、彼は堕落したカトリック教会を痛烈に批判したことで、コンスタンツ公会議において異端と見なされてしまい、1415年に火炙りの刑に処せられた。それに衝撃と怒りを覚えたフス派の信者らはカトリック教会と対立し、フス戦争が開戦されたのである。

 長きにわたって外国の支配下にあったチェコ人の間で、自らの信念を貫き通したヤン・フスの人気は根強い。とりわけ彼が死の間際に遺した「「Pravda vítězí(真実は勝つ)」」という言葉は、1920年のチェコスロヴァキアの独立時の標語になり、現在も大統領府の旗に刻まれているほどだ。だが、ヤン・フスの死から500年も後に、彼と同じような意思と名前、そして死に方をした若者たちが登場するなどとは、誰も予想できなかっただろう。

 

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 夜の旧市街広場。

 

<ヴァーツラフ広場とヤン・パラフ、ヤン・ザイーツ>

 旧市街広場がプラハの近代までの歴史を物語っているとしたら、新市街地にあるヴァールラフ広場はチェコスロヴァキア時代から現在に続く近過去を物語っている。広場というよりは大通りのようだが、この場所は民主化を巡る血なまぐさい舞台として知られている。

 

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 ヴァーツラフ広場。奥の建物は国立博物館。手前の銅像はボヘミア最初の王である聖ヴァーツラフ。

 

第2次世界大戦後、ナチスドイツの支配下から解放されたチェコスロヴァキアは、今度は社会主義国として事実上ソ連の強い影響下にあった。しかし、国民の間では民主化運動の機運が高まり、1968年に改革派のドゥブチェクが第1書記に就任することになった。この民主化への一連の流れが、「プラハの春」である。ドゥブチェクは開放的な政策を次々と実施していったが、自国への影響を恐れたソ連をはじめとする東側諸国はそれを危険視し、ついに同年8月21日にワルシャワ条約機構として軍事介入した。戦車がヴァーツラフ広場を占領し、ドゥブチェクも解任され、民主化の流れは強引に途絶えさせられてしまった。春はあっけなく終わってしまったのである。

 プラハ市民はこの軍事介入に抗議し、多くの人がヴァーツラフ広場に座り込んでの抗議を行った。中でもヤン・パラフとヤン・ザイーツいう2人の若者の愛国心は相当のものだった。カレル大学の学生であった彼は、民主化への学生運動に携わっていたが、それが頓挫したことへの失意と抗議の表明として、パラフは1969年1月19日に、ザイーツは同年2月25日に、この広場で自らの体に火を放ち自死した。同じ名前の偉大な先人になぞらえてそうしたのかは分からないが、それによって、彼らもまたチェコの英雄となったのだ。

2人若者の夢は、死後20年が経ってようやく叶うことになる。1989年11月17日に起きたビロード革命によって共産党政権は倒され、この国にようやく民主化がもたらされたのだ。ぼくがプラハを再訪した日は11月18日だったが、その前日の17日は「ビロード革命記念日」として、ヴァーツラフ広場には民主化を祝うために多くの人が集まっていた。その証拠に、翌日の朝撮った写真には、彼らの祈念プレートの周りには追悼のろうそくがいくつも灯されていた。

日本人、とりわけビロード革命以後に生まれたぼくにとって、社会主義民主化運動はよく分らない遠い存在のように感じられるが、チェコの人々にとってはつい最近の出来事なのだ。そして、そのために多くの命が失われたことを、彼らはいまもこれからも忘れることはないだろう。

 

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 ヤン・パラフとヤン・ザイーツのモニュメント。多くのろうそくが捧げられている。

 

<観光の前に>

旅行スタイルは人それぞれなので、ただ観光するだけでももちろん構わない。でも、言う前に歴史的な背景を予習しておいたが、よりその地を楽しむことができる。プラハに関して言えば、この新旧市街地にある2つの広場と、なにより3人のヤンという名前の偉人のことは知っておいた方がいいだろう。真実と民主化を求め闘い、散っていった彼らがいるからこそ、いまのプラハは存在しあり、多くの観光客が自由に訪れることができるのだ。

 

<補足>

 プラハの春やヤン・パラフについて知りたい人は、「プラハの春」春江一也著(集英社)という小説にくわしく描かれているので、そちらを読んでいただきたい。

 

 

プラハ カフカを探して

<ついにプラハ

 これまで何度も名前だけが登場してきたが、ここにきてようやくチェコの首都プラハについて書くことができる。3週間の旅行の間、1週間近くはこの街に滞在していたので、その分書くべきことも多い。なので、何回かに分けて色々と紹介しようと思う。

 ちなみに、今回の旅はこのプラハからはじまって周辺国を巡った後、最後にもう1度プラハに戻って数日過ごした。そのため、同じプラハの文章でも日時がずれている部分が出てくるかもしれないが、あらかじめご了承願いたい。

 

プラハといえばカフカ

 チェコの見どころはいくつもあるが、初回はあえてマニアックな文学のジャンルから攻めてみる。

チェコの代表的な作家といえば、『ロボット』『山椒戦争』のカレル・チャペック、『存在の耐えられない軽さ』のミラン・クンデラ、『あまりにも騒がしい孤独』のボフミル・フラバルらが有名だが、プラハといえばやはりフランツ・カフカだろう。

カフカはこの街で生まれ育ち、執筆と並行してこの街の保険会社で働いていた生粋のプラハ市民であった。当時のチェコオーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあり、社会的に優位な立場にある人々の間ではドイツ語が用いられていた。ユダヤ人の家に生まれたカフカはよい生活のためにチェコ語ではなくドイツ語の教育を受けさせられたため、作品もドイツ語で執筆されている。こうした、チェコで暮らしているのにドイツ語を使う矛盾と、さらに自分がユダヤ人であるという不安定さが、奇妙で不条理な彼の作品の根底にあると考えられる。

 

カフカ賞授賞式場>

 カフカはいまもプラハ市民の間で親しまれている。もう少し意地悪な言い方をすれば、重要な観光資源として利用されているようだった。なので、ここからいくつかカフカに関する観光スポットをご紹介する。

 まずは旧市街広場にある旧市庁舎。この建物に設けられた天文時計を見ようと多くの観光客が押し寄せるが、ここはフランツ・カフカ賞の授賞式場としても使われている。カフカ賞の受賞者は2006年の村上春樹が有名だが、それ以外にもエルフリーデ・イェリネクハロルド・ピンターといったノーベル文学賞作家に加え、フィリップ・ロスやハヴェル元チェコ大統領(彼は劇作家だった)といったそうそうたる面々だ。多くの人にはなんのこっちゃって話しだが、海外文学が好きな人にとっては興奮ものの場所なのである。

ちなみに、旧市庁舎の中にある礼拝堂は、結婚式場としてプラハ市民に人気があるらしい。これについてはまた別の機会で記述する。

 

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 旧市庁舎。手前にあるのが天文時計。

 

カフカの生家は現在>

 旧市街広場の近くには、カフカの生家がある。ガイドブックに載っていないので、きっとひっそりとした目立たない場所にあるのかと思いきや、行ってみると入口に堂々と「カフェ・カフカ」と書かれていた。

 調べてみると、現在カフカの生家は記念館になっており、建物も一部を残して建て替えられているらしい。カフェ・カフカというのはその中に作られたカフェテリアのようだ。なんだか観光客擦れしたその外観に拍子抜けしてしまい、ぼくは足を踏み入れずに通り過ぎてしまった。墓場で騒ぐ人はいないのだから生家もそっとしておいてやれよ、と思ったが、ぼくのような観光客が多く訪れるので自然とこういう形態になったのだろう。そう考えると、これも仕方がないことなのかもしれない。

 

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 カフカの生家。ひっそりとしているのかと思いきや、めっちゃ宣伝していた。

 

カフカ博物館>

 カフカについて詳しく知りたい人は、モルダウ川沿いにあるフランツ・カフカ博物館に行くといい。場所は少し分かりづらいが、カレル橋から大きな看板が見えるので、その辺りを目指して歩けば見つかるだろう。

 橋を渡ってプラハ城側に行き、お洒落な建物が並ぶ小道をしばらく進むと、博物館の標識が見えてくる。敷地内に入ると、観光客は奇抜なオブジェにぎょっとさせられる。それは2人の男性が向かい合って立ち小便をしているもので、なぜか数分おきに腰が回転し、男性器が上下する仕組みになっている。なにを表しているのは全く分からないが、さすがはカフカだ。

 

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 敷地内にあるオブジェ。まさにカフカ

 

 博物館の前にも『審判』や『城』の主人公である「K」の巨大な文字が置かれていて、中に入る前からすでに度肝を抜かされる。だが、博物館のチケットはこの建物ではなく、手前のミュージアムショップで買わないといけない。店の中にはカフカの絵はがきやカレンダーなどのグッズが並べられているが、チケットはレジのおばちゃんから直接買うことになる。大人1人180コロナ(約900円)と少し高い気もするが、新市街地にあるミュシャ美術館のチケットとセットで買うと半額になるそうだ。両方訪れる予定の人は、先にそちらを観てから来た方がいいだろう。

 

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 博物館前にある巨大な「K」の文字。

 

チケットを買って、ようやく博物館に入った。館内はうす暗く、カフカの作品世界を表現しているかのようですこし不気味だった。だが、他の人のブログでも言及されているが、チケットを確認した係員のおばあちゃんがとてもいい感じだった。品の良さと優しさを兼ね備えていて、きっとむかしは可憐な文学少女だったのだろうと思わず微笑ましくなった。

 館内は撮影禁止だったので写真は載せられないが、展示内容はカフカの略歴や手紙、彼と関わりのある女性たちの紹介などオーソドックスな資料もあったものの、やはり全体的にシュールで前衛的だった。『城』をイメージしたらしいオブジェや、カフカのイラストをもとにした不気味な棒人間のアニメーション。さらには、せまい階段を下りた先に何十ものコインロッカーが整然と並んでいて、その途中に設置された電話から誰だか分からない人の声が聞こえてくる(なにかの作品にそんなシーンがあったのかは覚えていないが)。そして、最後の部屋は一面真っ白で、しかも壁が合わせ鏡になっており、来場者は複製された自分自身を目の当たりにすることになる。最初から最後まで、カフカらしさにあふれた演出だった。

館内はおおよそ一時間もあればだいたい観て回れ、博物館としてもアトラクションとしても十分楽しめた。だが、カフカの小説と同様、神経をかなり刺激させられるため、観終わった後はけっこう疲れてしまった。

 

<その他のカフカゆかりの場所>

 ぼくは訪れなかったが、その他にもカフカゆかりの場所は色々とある。プラハ城内には黄金小道という細い路地があり、その中にあるNo22と書かれた青い家は、生前のカフカの仕事場である。また、Zelivskeho駅近くにあるユダヤ人墓地では、いまもカフカがひっそりと静かに眠っている。

 このように、プラハにはカフカに関するスポットがいたるところにあるので、それらを巡りながら観光するのもいいだろう。今年2014年はカフカの死後90周年にあたる。これを機にプラハを訪れてみては、とまでは言わないが、1度彼の作品を読み直してみてはいかがだろうか。

 

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 空港の免税店で買ったカフカチョコ。これ1個で50コロナ(約250円)という驚きの価格。

 

 

絵本の世界への入り方 チェスキー・クルムロフ

<おとぎの世界を探して>

 チェコがどんな国かと想像すると、多くの人は絵本のようにメルヘンチックなイメージを喚起するだろう。けれど、時代はグローバル化の進んだ21世紀なわけで、そのような現実離れしたおとぎの世界はあるはずがない。首都のプラハだって、中世ヨーロッパの雰囲気が漂ってはいるものの、市街地はファーストフード店やブランドショップが軒を連ねる現代的な街並みだった。

 しかし、チェスキー・クルムロフは違った。一歩踏み入れた瞬間、観光客はまさに絵本の中に迷い込んだかのような錯覚を覚えるのだ。チェコの南の外れにある、世界で一番美しいとも評されるこの小さな町を、今回は紹介したいと思う。

 

プラハからチェスキー・クルムロフへの行き方>

 チェスキー・クルムロフは少し不便な場所にある。国境のすぐそばにあるので、プラハよりもオーストリアリンツから行った方がアクセスはいいかもしれない。

プラハから列車で行く場合は、1度チェスキー・ブディェヨヴィツェで乗り換え、総計3~4時間ほどかかる。バスだと3時間ほどで本数も多いが、人気のある観光地なので数日前にチケットの予約を済ましておくのが無難だ。

 列車とバスの時刻はこのサイトから調べることができる。「Odkiaľ」というところに「Praha」、「Kam」に「Český Krumlov」と打ち、(「Č」とかの特殊な文字はそのまま「C」と打てば大丈夫)、「Dátum a čas」に日時を入力すれば候補が出てくる。料金は若干変動があるが、列車だとだいたい260コロナから、バスだと200コロナくらいになる。

 

<列車で向かう>

 ぼくは列車を使ってチェスキー・クルムロフに向かった。プラハからチェスキー・ブディェヨヴィツェまではコンパートメント車両だったが、乗り換え後はローカル線になるため、通路を挟んで両側に四人がけの席が並ぶ日本の列車と同じタイプの車両だった。

 オフシーズンだからか、それとも観光客の多くはバスで行くからなのか、車内はまばらだった。数少ない乗客も、ほとんどが現地の人々のようだ。ナンプレをやっている途中で寝てしまったおじいちゃんや、おそらくなにかのスポーツの練習に行くのだろうジャージ姿の女の子など、それぞれの日常生活の一場面がうかがえた。彼らとは住む土地や人種が異なっているけど、本質的な部分はぼくら日本人と大差はないのかもしれない。

 車窓の外は、ボヘミアの山並みや草原など「アルプスの少女ハイジ」に出てきそうな自然が広がっている。途中の駅も簡素なもので、列車というよりはバスの停留所のようだ。プラハの大都市とはまるっきり異なる風景に、なんだか心が休まっていく。

 チェスキー・ブディェヨヴィツェからのんびりと1時間ほどで、ようやくチェスキー・クルムロフに着いた。ここが終点ではないため、居眠りをして乗り過ごさないよう注意が必要だ。駅のホームが小さいので線路にそのまま降り立つと、冷たい空気と田舎町特有の草のにおいが出迎えてくれる。そして、多くの人は、はじめて来るはずなのにどことなく懐かしい心地になるだろう。

 

<駅から城へ>

 チェスキー・クルムロフ自体は小さな町だが、駅から市街地までは1.5キロと少し距離がある。いったん荷物を置こうと、まずは予約した宿に向かった。

 宿は駅近くの通りに面したレストランに併設されたペンションだった。シャワーと暖房がちゃんと付いたシングルで、1泊18ユーロ(約2300円)と値段もまあまあ安かったが、部屋に入るなりハエが中を飛び回っていた。出鼻をくじかれはしたが、それもまたこの町ののどかさを演出しているかのようだった。

 宿に着いた時点で午後3時を回っていた。この時期のチェコは夕方の時間にはもう真っ暗になってしまうので、一息つく間もなく市街地へ向かうことにした。レセプションの女性に行き方を教えてもらい、市街地へ続く下り坂を早足で歩いた。木々の生い茂る長く急な階段を下りて視界が開けると、大きな建物が見えた。それが、この町1番の目玉、クルムロフ城だった。

 

<クルムロフ城からの町並み>

 クルムロフ城は13世紀に当時この地を治めていたローゼンベルク家によって創建された。その後、幾度か領主が変わるたびに増設され、現在はプラハ城に次ぐチェコで2番目に大きな城となっている。ゴシックにバロックルネッサンスと様々な様式の建物の数々は、さながらチェスキー・クルムロフの歴史を物語っているかのようだ。

 

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 クルムロフ城の塔

 

 城自体もさることながら、そこから眺める町並みは絶景だ。屋根を赤と黒に統一された建物が、まるでミニチュアのように密集している。ミニチュア、と変なたとえで評したのは、その景色が現実離れしているからだ。ここが日本と同じ地平線上にある気がせず、どこか別の次元の、まさに絵本という想像上の世界を目にしているような気にさせられた。

 ぼくはだいたい3分もしたら景色に飽きてしまうタチなのだが、このときばかりは何十分も眺め続けていた。おそらく、それはチェスキー・クルムロフの町並みが、東洋人の抱くヨーロッパへの羨望を体現しているからだろう。現に、ここに来るまで何人もの東洋系の観光客を目にした。中国人の団体客や、韓国人と思われるカップルもいたし、ぼくのような一人旅の日本人もいた。せっかくこんなおとぎの世界まで来たのにお前たちがいると雰囲気が壊れるじゃないか、と身も蓋もないことを思ってしまったが、彼らにとってはぼくもその対象なのだろう。それくらい、この町の景色はぼくら東洋人を弾きつける魔力を醸し出していた。

 

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 クルムロフ城からの町並み①

 

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 クルムロフ城からの町並み②

 

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 クルムロフ城からの町並み③

 

<旧市街地へ>

 城の後は旧市街地の中に足を踏み入れた。ここも現実だとは到底思えない光景だった。絵本どころか、ドラクエのような古典的なRPGの世界に迷い込んだかのような気分にさせられる。自分の想像力ではそれくらいの表現でしかたとえられないが、誰もが似たような感想を抱くだろう。知ってはいるけれど、絶対に自分の日常にはない空間。だからこそ、観光客はこの町をディズニーランドと同じような楽しみ方で見て回ることができる。

 石畳の道を歩けば、ルネッサンス期に建てられたかわいらしい建物が出迎えてくれる。町自体はヴルタヴァ川の岸辺にこぢんまりと納まっているが、道が迷路のように入り組んでいるので実際以上に大きく感じられる。また、どの小道にも味のあるお土産物屋やレストランが店を出しており、ショッピングや食事を楽しむのもいいだろう。

 

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 旧市街地の町並み①

 

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 旧市街地の町並み②

 

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 お土産物屋①

 

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  お土産物屋②

 

 これからもっとこの町を探索してみようとした矢先、辺りが急に暗くなりはじめた。時計はまだ午後5時だったが、冬のヨーロッパの1日は無慈悲なほど短いのだ。だが、この町の魅力は夜に盛りを迎える。外灯や店の明かりが煌々ときらめき、神秘的な様相を呈する。クルムロフ城もライトアップされ、息を呑むほどの美しさだ。恋人や伴侶と一緒に訪れたのなら、二人の最高の思い出となること間違いないだろう(もちろん、一人で来ても満足できるが)。

 

 

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 ライトアップされたクルムロフ城の橋

 

<夢から覚めたときの注意点>

 チェスキー・クルムロフでは夢のひとときを過ごすことができるが、それだけを述べるのは無責任でもあるので、現実的な面での不便さも書いておく。

まず、食事に関してだが、レストランで食べる分には問題はないものの、ぼくのように安く済ませようと思う人は、スーパーや食料品店を探すのに苦労するだろう。景観を守るためだろうが、それらの店は旧市街地の外にしかない。しかも、夜は町から一歩外れると明かりがほとんどなく、道に迷いそうになってしまう。駅の近くにスーパーが一軒だけあったので、事前にそこで飲み物と軽食を買っておくことをおすすめする。

 また、旧市街地から駅の方に戻る場合は、上り坂に苦労させられるだろう。体力に自信がある人でも、あまり町歩きに張りきり過ぎない方が身のためだ。駅と旧市街地の間は市バスが通っているので、観光を楽しんだ後はそれを利用してみてもいい。また、長距離バスは旧市街地の近くで発着するので、やはり列車ではなくそちらを使って訪れる方が便利かもしれない。

 

<絵本の世界は絵本のままに>

日が落ちて辺りがすっかり暗くなってからは、ほとんど観光もせず宿に戻った。スーパーで買ったパンとビールを、チェコ語で吹き替えられた「ザ・シンプソンズ」を見ながらもそもそと食べる。腹がいっぱいになると、日本宛ての手紙を書いて、シャワーを浴びて、ぼっとしているうちに眠りに落ちた。

そして翌朝、ぼくは一泊だけしてすぐにプラハに戻ってしまった。この町を見て回ったのは、実質的に3時間にも満たないだろう。

せっかく来たのにもったいないと思われるだろうが、ぼくはこれ以上チェスキー・クルムロフの町に滞在するのが恐ろしかった。それは、「慣れ」への恐怖だった。この町はあまりにも非日常で特殊であったからこそ、何日も滞在して見慣れてしまったら、その価値に対して不感症になってしまう気がしたのだ。

ぼくにとってチェスキー・クルムロフは、ずっと非日常の場所であってほしかった。絵本の世界は、絵本のままであるからこそ、そこを訪れるものを現実にはない魔力で魅了してくれるのだ。

 

 

 

クトナーホラの珍スポット

チェコの珍スポット>

 どこの国のどんな地域に行っても必ずあるのが「珍スポット」だ。たとえばタイのバンコクにあるシーウィ―博物館では、連続強姦魔のミイラや人間の脳みその解剖模型などが展示されているし、ベトナムホーチミンには、スイティエン公園というツッコミどころ満載な遊園地がある。すべての観光客が行って楽しめるわけではないが、モノ好きな人にとってはどんなきれいな景色や美味しい食べ物にも勝る旅の思い出となる、それが珍スポットなのだ。

もちろんチェコにも珍スポットがある。しかも、この国の放つメルヘンチックなイメージを覆すかのように、少しおどろおどろしい内容だった。今回はその珍スポットについて紹介しよう。

*若干、刺激の強い写真があるので、苦手な人は読まない方がいいかもしれない。

 

<田舎町クトナーホラ>

 その珍スポットがあるのは、クトナーホラという田舎町だ。首都プラハから列車でわずか1時間でクトナーホラ本駅に着く。駅舎から出てみると、人気や車の往来はほとんどなく、静かで澄んだ空気が出迎えてくれる。本当に珍スポットがあるのかと疑ってしまうほど、のどかな景色だった。

目当ての珍スポットへは、駅から向かって右手にある道を進む。市街地や珍スポットへはこの道を進む以外に方法がないので、道なりに真っ直ぐ歩けば迷うことはない。

5分ほど歩くと、交差点に差しかかる。ところで、珍スポットの前に観光客は左手にある巨大な建物に目が行くだろう。これは1300年前後に建てたられたとされる聖母マリア大聖堂で、その時代から残っているものとしてはチェコ最大の教会である。

この大聖堂や珍スポットがある場所はセドレツ地区と呼ばれ、世界遺産にも登録されている。もともとクトナーホラは銀の採掘が行われており、中世にはプラハに継ぐボヘミア王国の第2の都市として栄えていた。しかし、15世紀ごろから銀が枯渇し、ペストや三十年戦争の影響もあって、衰退することになった。一見のどかなこの町にも、そういった波乱万丈な歴史が内包されているのだ。

 

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聖母マリア大聖堂

 

 前書きが長くなってしまったが、大聖堂のある交差点を右に曲がり坂道を3分ほど歩けば、ようやく珍スポットのお出ましだ。先ほどの大聖堂と比べると、その建物はこぢんまりとしている。小さな門をくぐって敷地内に入ると、多くの来場者が思わずぎょっとするだろう。建物の周りには、無数の墓が並んでいるのだ。

 

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 墓地の中に建てられた全聖人教会。

 

<骨、骨、骨>

 セドレツ墓地の中にある全聖人教会。その地下に設けられた納骨堂が、今回紹介する珍スポットだ。階段を下りて暗い堂内に入ると、うっすらと十字架の装飾品が見えてくる。近づいてよく観察しようとした瞬間、度肝を抜かされた。

 十字架を形作っているのは、ぜんぶ頭骸骨なのだ。天井から吊るされたシャンデリアも、素材はガラスではなく人骨だった。それに装飾品だけではない。柵で仕切られた向こう側には、人骨が山積みされていた。ガイドブックによると、骨の数は4万人分にも上るらしく、あまりにも非現実的な光景だったので、まるでポップコーンのようだと思った。

 

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めっちゃボケてて申し訳ないけど、全部骨です。

 

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シャンデリア。恐怖で震えていたということにしておいてください。

 

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骨、骨、骨。

 

なぜ、こんなに骨だらけなのか? 一説によると、13世紀にセドレツ修道院のハインリヒという人が、エルサレムから持ち帰ったゴルゴダの丘の土をこの墓地に撒いたことがそもそものはじまりらしい。それ以来、カトリック教徒の間でこの墓地は聖地として見なされるようになり、数多くの埋葬希望者が現れた。さらに14世紀には先にも述べたペストの大流行で3万人もの感染者が、15世紀にはキリスト教の教派対立が招いたフス戦争の犠牲者数千人が埋葬されることになり、墓地の規模はどんどん大きくなっていった。

全聖人教会が建てられたのもそのころである。墓地にはすでにかなりの数の埋葬が行われていたので、教会の工事中に次々と亡骸が発掘された。それらの亡骸の保存場所と、墓地の縮小の意味も兼ねて、教会の地下に納骨堂が設けられたのである。

 また、悪趣味と紙一重の骨の装飾品についてだが、こちらは19世紀に教会を買い取ったシュヴァルツェンベルク家が、木彫師のフランティシェク・リントという人に作らせたものである。制作の背景には「メメント・モリ」の教えがあるそうで、それを踏まえた上で改めて見ると、来場者はおどろおどろしさの中に生のはかなさを感じる取ることだろう。なお、これらの装飾品には1万人分の骨が用いられているとのことだ。

 

<よみがえるキリングフィールドでの記憶>

 納骨堂の人骨を前にして、ぼくはカンボジアのキリングフィールドで目にした何千という頭蓋骨を思い出した。

キリングフィールドは1970年代のポルポド政権時に虐殺が行われた場所で、現在は一般公開されていて、国内外から多くの来訪者が足を運んでいる。敷地内に建立された慰霊塔には無数の犠牲者たちの骨が祀られており、そのときの衝撃的な光景がよみがえってきたのだ。

 納骨堂とキリングフィールド。この2つの場所で目にした人骨の山は、歴史的な背景は異なるけれど、どちらもぼくを厳かな気持ちにさせた。目の前にある骨の主は、かつてぼくと同じように不可逆的な生を謳歌していた。けれど、彼らはみんな死んでしまった。天寿を全うした人もいるだろうが、多くはペストのような伝染病や、虐殺というむごい方法でその命を奪われてしまったのだ。どのような運命が待っているのかは分からないが、やがてはぼくも彼らと同じ骨になる。そう考えると、あてのない旅の1秒1秒が貴重なものに思え、この場所を珍スポットと呼ぶのは少々不謹慎な気もした。

 

<珍スポットから学ぶ歴史>

ぼくが納骨堂に行こうと思ったきっかけは、単なる怖いもの見たさだった。けれど、実際にその場所を訪れたことで、どうしてこんな変わったものが作られたのかを調べるようになり、色々と歴史的な側面も学ぶことができた。博物館や偉人の銅像なんかを見てもなかなか理解しづらいが(海外だと言語の障害もあるし)、こういった変わり種によっても、その国をより深く知ることができるのだ。そういった意味で、珍スポットもまた立派な文化遺産であると言えるだろう。

 それに、クトナーホラの目玉はなにも骨だけではない。市街地の町並みは歴史があるし、のどかな田舎町の空気を堪能したりするのもいい。この町はプラハから列車で1時間ほどしか離れていないので、ほとんどの観光客は日帰りで訪れる。けれど、せっかくなので一泊して、プラハとはまた違った風情をのんびりと堪能してみてはどうだろうか。