豆鳥の巣立ち

旅と小説とその他もろもろ

プラハ ミュシャのステンドグラス

<旅の終わりを告げるなにか>

なん年もかけた1人旅でも、7泊8日のパッケージツアーでも、最後には必ず旅の終わりを告げるなにかに出会う。それを目にしたとたん、直感的に「ああ、終わったんだ」と虚脱感とも安心ともつかない喪失感を覚える、なにか。

たとえば、『深夜特急』の主人公にとっては、ポルトガルサグレスの海がそれに当たる。彼はロンドンに向かおうとする間際、急にこのまま旅を終わらせていいのかと疑問を抱く。そこで、一路進路を変えてイベリア半島の最南端の町ザグレスへ向かう。それが本当の意味で最後の旅先であると感じながら。そして、その町の海辺のホテルで広大な大西洋を見たことによって、彼は1年半に及ぶ旅に終止符を打とうと決意したのだった。

帰国の数日前から、ぼくも彼と同じようにずっとその瞬間を探し求めていた。わずか3週間程度だったものの、それを実感しなければ旅が終わらない気がしたし、旅に出た意味もないように思えたのだ。

 

<アルフォンス・ミュシャ

 けれど、そう簡単にドラマティックな旅の終わりが訪れるわけがない。むしろ、ぼくはプラハでなん日もだらだらと過ごしているうちに、新鮮味も驚きも感じなくなっていた。気づけば、あっという間に帰国前日になっていた。このままなんとなく日本に帰ることになるんだろうな。そうやって半ばあきらめかけていたときに、なんとなく足を運んでみた場所があった。新市街地にあるミュシャ美術館だ。

 アルフォンス・ミュシャチェコ語の発音ではムハ)の名前にピンとくる人も多いだろう。彼は19世紀後半から20世紀初頭にかけてパリで流行した「アールヌーヴォー」の巨匠として日本でも人気が高く、現在も『ミュシャ展 パリの夢モラヴィアの祈り』という巡回展が行われている(2014年1月現在)。だが、ぼくはそれまで彼の名前はおろか、アールヌーヴォーというムーブメント自体よく分っていなかった。美術館に行ったのも、ただのヒマ潰しに過ぎなかったのだ。

 けれど、そこに展示された彼の作品を目にしたとたん、ぼくはその場から動けなくなってしまった。プラハに来る前に、ぼくはウィーンやブダペストにある美術館で、フェルメールラファエロレンブラントなどそうそうたる巨匠の作品を目にしてきた。それらの絵画はたしかに素晴らしく、芸術性の高さに心が洗われた。けれど、いま眼前にあるミュシャの作品は違った。芸術性の高さうんぬん以上に、彼の作品が発する強烈な力にぼくは惹きつけられたのだ。

そもそも、ミュシャの作品の大半はリトグラフという製法で作られたイラストなので、絵画と比較すること自体間違っているのかもしれない。だが、彼の絵に描かれた女性らには、画法の違いを越える魅力があった。特に当時「世界でもっとも有名な女優」と呼ばれたサラ・ベルナールをモデルとした初期の作品には、宗教画の聖人や肖像画の貴婦人にはない、女性の艶めかしさと芯の強さが感じられた。モデルが女優であるからだろうが、そこに描かれた自然体かつエネルギッシュな女性像はきわめて現代的であり、そこに親近感を覚えたのかもしれない。それに、彼の絵の特徴や雰囲気は、竹久夢二や最近の日本の漫画となんとなく似ている。いや、似ていると言うよりも、それらはミュシャの影響を多分に受けているのだろう。近代以降、日本人はヨーロッパの大衆文化に憧れ、模倣してきた。ミュシャの作品はまさにその象徴であるからこそ、いまでも日本人の間で人気があり、ぼくも目を奪われてしまったのだろう。

 

<旅の終わりを求めて>

 美術館自体は小さな画廊という感じで、30分もあればすべての作品をじっくり観て回ることができた。でも、ぼくは1時間が過ぎてもそこを後にすることができなかった。もう、プラハの街には、この場所の他に惹きつけられるものがないように思えたのだ。

 ぼくは駄々をこねるように、展示作品をなん周も観て回った。そうしていると、やがて学芸員や他の観客から不審な目を向けられるようになった。仕方がなく、ぼくはギャラリーを離れ、併設されたミュージアムショップに入った。

そこにはミュシャの絵が描かれたポストカードやマッチ箱に加え、なぜかカフカグッズも置かれていた。ここでカフカ博物館のチケットを買うと半額になるそうなので、おそらく業務提携かなにかをしているのだろう。お土産の中には、日本語で書かれたミュシャの解説本も置いてあった。なんとはなしに手にとって、ぱらぱらと眺めてみた。するとその中に、プラハ城の敷地内にある聖ヴィート大聖堂ミュシャが作ったステンドグラスがあるという記述を発見した。それを目にしたとたん、ぼくの心臓は高鳴った。

これだ。これこそが、ぼくの中欧の旅に終わりを告げるなにかなのだ!

解説本には文章しかなく、ステンドグラスがどんなものなのかは分からなかった。でも不思議なことに、ぼくはそうに違いないと根拠のない確信していた。実物をこの目で見さえすれば、異国に来たことを後悔しなくて済む。そして、心置きなく旅を終えることができるのだろう、と。

ひさしく感じたことのなかった熱が体中を駆け巡り、まるで恋人にでも会いに行くかのような期待と不安で息をするのも苦しくなっている。ぼくは急きたてられるように美術館を後にし、聖ヴィート大聖堂に向かった。

 

聖ヴィート大聖堂のステンドグラス>

 長い石畳の階段を登り、もうなん度も足を運んだプラハ城に入る。けれど、ただなんとなく来ていたこれまでとは異なり、今回ははっきりとした目的がある。城の中庭では、家族連れが写真を取り合っていたり、恋人たちがなにやら談笑したりしている。1人旅のぼくには、彼らのような楽しみ方はできない。どう楽しむのかも、どこに行くのかも、全部自分次第だった。ならば最後も、自分が納得できる終わらせ方でないといけない。

聖ヴィート大聖堂の前も、観光客であふれていた。その様子を前にして、脳裏に一抹の不安がよぎった。こんな誰もが訪れる定番の観光名所で、本当に旅を終わらせることができるのだろうか? けれど、後には引けなかった。もうここにしか、その可能性は残されていないのだ。ぼくは意を決し、ただ1人神妙な面持ちをしながら中に入った。

 

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 聖ヴィート大聖堂

 

 大聖堂の中はうす暗く、ひんやりとした空気に満ちていた。多くの人がいるのにもかかわらず、厳粛な雰囲気が漂っているのは、この場所に眠る歴代のボヘミア国王らへの敬意を、彼らが無意識のうちに表しているからだろう。

高さ34メートル、幅60メートル、そして奥行き124メートルというこの強大な建物は、そもそも14世紀に着工された。しかし、その後のフス戦争や資金難の影響で、最終的に完成したのは1929年、聖ヴァーツラフの生誕1000周年のことだった。

ミュシャがステンドグラスを描いたのは、完成から2年後の1931年のことだ。そこには、スラブ民族キリスト教を広めた聖キュリロスと聖メトディオスの生涯が描かれている。また、ガラスに直接油彩を乗せているので、通常のステンドグラスよりも鮮やかかつ緻密な仕上がりとなっている。と、解説本には書いてあったけれど、そんな知識は正直どうでもよかった。ただただ、ぼくはその姿を一刻もはやく見たくて、盲信と言ってもいいほど切実な心境に陥っていた。

ミュシャのステンドグラスは、入口から見て左側の3番目のものらしい。だが、ここで問題が生じた。ステンドグラスに通じる通路の前にはゲートが設けられており、近くで見るには入場料を払わないといけないようなのだ。調べてみると、入場料は最低でも250コロナとある。このとき、ぼくは100コロナしか持ち合わせていなかった。

 1度ホテルに戻るべきか。でもそんなことをしたら、この熱は冷めてしまって、もうどうでもよくなってしまうのは明らかだった。やっぱり、このままグダグダで帰国しなければならないのか。そうあきらめかけていた矢先、またあることに気づいた。

入り口の少し前にあるスペースで、なん人もの観光客がスマートフォンやデジカメで写真を撮影しているのだ。なにごとかと近づいてみて、その理由が分かった。そこからステンドグラスが見えるのだ。離れているし、柱に隠れて見えない部分もあるけれど、それだったら入場料を払わなくても済む。ぼくは最後の望みをかけてそのスペースの一番奥まで進み、ミュシャのステンドグラスに目を向けた。

 その瞬間、ぼくはまた動けなくなった。聖堂の外から差し込む光に照らされて、ステンドグラスは色鮮やかに輝いている。角度も距離もあったので、細かいところまでは目にすることができない。それでも、ミュシャの絵が放つ圧倒的な存在感が、ぼくの胸を振るわせた。この絵を見るために、ぼくはいくつもの国を巡ったのだ。そう思わされたほど、そこには3週間に及ぶ旅行のすべてが収斂されていた。そして、これでぼくの旅行も終わったのだと、悟らされもした。

観光客の雑踏も聞こえないまま、ぼくはその至福の時間に酔いしれていた。ステンドグラスの写真は撮らなかった。この感動は、もので記録できるものでは決してないからだ。だからこそ、この光景を頭に焼きつけておこうと、ぼくはただ1人、いつまでもその場に立ち尽くしていた。

 

<帰国 あとがきのようなもの>

 翌日、ぼくはプラハを後にした。1度イスタンブールで飛行機を乗り換え、日本に着いたのはその次の日のことだった。中欧と比べると、日本は格段に暖かかった。

そして、周りには日本人しかいなく、彼らが話していることも街の看板に書かれていることもすんなりと理解できだ。そんな当たり前の状況に、ぼくは安心するよりも戸惑ってしまった。中欧では自分が他人とは異なる存在であると見た目からも明らかだったけれど、ここでは自分と他人との違いがほとんどないように思えたのだ。

けれど、その違和感も、なん日かしたらすっと消えてなくなってしまった。ぼくは以前の日常生活に再び順応しはじめたのだ。だが、それと同時に、旅行の記憶も徐々に薄れてしまい、本当に自分はそんな体験をしたのだろうかと疑ってしまうようにもなった。

そこで、ぼくは当時のことをこうして文章に残そうと決めた。一応下調べをしているけれど、中には記憶違いから間違った情報が含まれているかもしれない。でも、ここに書かれていることは、ぼくの目から見た旅先の光景であることはたしかなのだ。

この文章を読んでも、旅行案内としては参考にならないのかもしれない。でも、旅をしているときのあの皮膚感覚を思い起こしてくれる人がきっといるはずだ。そんなことを願いながら、ぼくは記憶を遡り、筆を走らせてきた。

 

 今回で中欧の旅行記は最後とする。次回からは、その旅行の前に行った2ヶ月ほどの東南アジア周遊記について書こうと思う。興味がある方はぜひそちらも読んでみてほしい。