豆鳥の巣立ち

旅と小説とその他もろもろ

バンコク 屋台とタイ人女性

<センレックを食べる>

 クーラーを利かせたまま寝てしまったので、寝起きはむしろ肌寒かった。おもむろに起き上がり、しばらくぼーっと部屋を見回す。そこが日本の自分の家ではなくバンコクのゲストハウスなのだと気づくまで、少し時間がかかった。

 時間はすでに10時を回っていた。今日はカオサン通りに行く予定だったけど、これからまた荷物を担いで炎天下を歩くのかと思うと急に行く気が失せてしまった。タイの灼熱の空気は、人をとことんずぼらにさせてしまうようだ。

 ぼくはこのホワイト・マンションにもう一泊することにした。着替えを済ませ、街歩き用のリュックサックに必要なものを詰め込み、部屋を出る。たどたどしい英語でオーナーのおばさんにその旨を伝えると、彼女はとても事務的に台帳に記入し、ぼくに宿泊費の500バーツを要求した。プミポン国王が描かれたピンクの紙幣1枚を渡すと、それでおしまい。ぼくは今日もここに泊まることになった。

 さて、今日はどうしよう。とりあえず、ものすごくお腹が空いている。よく考えたら、昨日からろくに食事を取っていなかった。このままだと強盗やテロとかに合う前に餓死してしまいそうだ。

何を食べようかと思案していると、オーナーのおばさんがどうしたのかと話しかけてきた。ちょうどいい、とぼくはリュックサックに入れた『旅の指さし単語帳』を取り出した。この本はタイ語のほかにカタカナ表記の読み方とイラストが書いてあるので、目的の言葉を指さすだけで意思疎通ができるというかなり便利なアイテムだ。

「ヒウ・カーオ(お腹が空いた)」

 と書かれたイラストをぼくは指さした。すると、おばさんはぼくから本を奪い、「ヤーッ・キン・アライ(何が食べたい?)」と言いながらその単語を指さした。ぼくは別のページに描かれていた「クイッティアオ(米の白い麺)」のイラストを彼女に見せた。だが、麺と言ってもいくつか種類があったので、とりあえず適当に「センレック(細麺)」という単語も加えてみた。

 要望を理解したおばさんは、ぼくをゲストハウス前の屋台につれて行ってくれた。そこの主人と何やら話をした後、彼女はぼくにさっきの言葉を言うよう促した。

「クイッティアオ・センレック」

 ぼくがそう注文すると、主人はあい分かったという感じで手際良く麺を煮始め、あっという間においしそうな一杯を渡してくれた。1杯40バーツ。およそ120円だ。

 さっそく屋台のそばのテーブルでタイ人に混ざりそれをいただいた。味はまさに絶品だった。麺は素麺のような食感で、するするとのどの奥に吸い込まれていく。さすがは本場だけあってスープは少し辛いけれど、鳥ガラの出汁が利いていてほっこりさせられる。ここからさらに味にアクセントがほしい場合は調味料や香料をお好みで入れてもいい。だが、ぼくは分量が分からず入れ過ぎてしまい、屋台に置いてある飲み水を何倍も飲む羽目になった。ちなみにこの飲み水だが、ぼくは滞在中一度も腹を下さなかったので、たぶん安全だと思う。それでも心配な人は、コンビニやスーパーで500ミリペットボトルのものが6バーツ(約18円)で買えるので、それを常備しておいた方がいいだろう。なんにせよ、ひさしぶりのちゃんとした食事ということもあり、ぼくはあっという間に完食した。

 

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 センレック。調味料を入れ過ぎて舌が焼けた。

 

バンコクのショッピングモール>

 屋台の店主に礼を言うと、ぼくはさっそく観光に出かけることにした。昨日はただ歩きまわっただけだったので、今日からは色んな名所を訪れてみようと思ったのだ。

 けれど、その意気込みはまたたく間にしなだれてしまった。この日も相変わらずの炎天下であっという間に汗だくになり、とても歩き続けられる状況ではなかった。そこで、ぼくは文明社会最大の発明品クーラーの施しを求めに行った。

バンコク中心地にはサーヤム・パラゴンやMBKといったショッピングモールが何軒も建ち並び、東急や伊勢丹などの日本資本の商業施設もある。まるで日本の渋谷のようだと感じたが、建物の周辺には屋台や路上生活者が多く見受けられ、ここが異国の地であることを再認識させられる。

 昨日学んだ通り、建物の中は楽園だった。外の暑さなどなかったかのような涼しさに、ぼくはこの時代に生まれてよかったとしみじみ感じた。ものの3分もかからないうちに汗がひくと、せっかくなので中をぶらついてみることにした。

軒を連ねるのはブランド品やファーストフードの店など、日本にあるものと代わり映えはしないが、興味をひかれる店がいくつかあった。たとえば吉野家。店の前に掲げられたメニューを見ると、牛丼は日本とそう変わらない値段で売られている。日本では安い小遣いで頑張るサラリーマンの強い味方だが、物価の安いタイではちょっといいレストランにあたるようだ。

それにダイソーもあった。日本の100円ショップと異なり、バンコクでは全品60バーツ(180円!)と倍近い値段で売られている。日本に来るタイ人観光客がこぞってダイソーでショッピングする理由はこのへんにあるのだろう。

 中を見てまわるうちに、今度はクーラーに当たり過ぎて寒くなってきた。そこでいったんショッピングモールから出るが、すぐにまた暑さに負けて別のショッピングモールに避難する。そういうことを何度か繰り返しているうちに、時間はどんどんと過ぎていってしまった。これも異文化体験のひとつだと言い訳しつつも、自分は何のために異国にきたのだと情けなくなってしまった。

 

<Kさんとの再会>

 午後を回り身体の汗臭さが目立ってきたので、いったんシャワーを浴びるために宿に戻った。すると、一人の男性が宿の前のテラスでタバコを吸っていた。昨日会った日本人のKさんだ。彼はぼくと目が合うと、気さくに声をかけてきた。ぼくはたじろいだ。昨夜のおじさんの一件で、ぼくは彼に対して不信感を抱いてしまったのだ。

 けれど、流れで少しおしゃべりをしてみると、ぼくの誤解はあっさり解消された。話しによると、Kさんはさっきまで日系企業の面接を受けに行っていたらしい。確かに着ているものはスーツだし、話そのものにも信憑性があった。どうやら本当にバンコクで就職活動をしているらしく、ぼくは彼を勝手に悪い人だと思い込んでいた自分を恥じた。

「やっぱり英語が話せないとだめやね」Kさんは煙とともにぼやいた。「いきなり英語で質問されてな、全然答えられへんかってん。おれの妹はカナダ留学してたからそれなりに話せるんやけど、やっぱそれくらいの経験は積んでおいたほうがよかったなぁ」

「SEでもやっぱり英語は必要ですか?」

「そら、ないよりはあった方がええしな。おれな、就職が決ってからもこっちで英会話学校に通うつもりやねん。日本と比べたらバンコクの方が何倍も安いし、英語を使わんとあかん環境やからだいぶ伸びるやろうし。きみも英語はある程度話せるようになっておいた方がええよ、ほんまに」

 昨夜ぼくは自分が大学院生だと誤魔化していたので、Kさんは親身になって色々と就活のアドバイスをしてくれた。いまさら本当のことは言い出せないし、状況は異なれど帰国後に就活をすることになるだろうから、ぼくも真剣に耳を傾けた。そうしているとなんだか打ち解けてきて、Kさんは近くの屋台で売っていたスプライトをおごってくれた。やっぱり彼はいい人ではないか。ぼくは昨日のおじさんに八つ当たりのような怒りを抱いた。

さらに、ぼくとKさんは一緒に夕飯を食べに行くことになった。一時間後に再集合することにして、ぼくたちはいったん部屋に戻った。さっそくシャワーを浴びてみたら、身体がひりひりと痛んだ。鏡で確認してみると、首の回りや腕が真っ赤になっている。二日目にしてこれだと先が思いやられたが、肌がもっと黒くなるころには、きっとこの地での生活にも慣れているだろう。現にKさんやおじさんの肌は、タイ人のそれと遜色がないほど焼けているのだから。

 

<タイ人女性の誘惑>

 身支度を済ませると、テラスに向かった。Kさんはまだいなかったので、ぼくは日本から持ってきたメビウスを吸いながら彼を待つことにした。昼間よりはだいぶ暑さが和らいだ空気の中に、白い煙が溶けていった。

 吸い終わった後、ちょっとした出来事が起こった。突然、向こうから黒のタンクトップにショートジーンズというなかなか刺激的な格好をしたタイ人女性が現れ、ぼくに話しかけてきたのだ。このゲストハウスの従業員だろうかと思い軽くあいさつをすると、なぜか彼女はぼくのとなりの席に腰を下ろした。

女性は親しげに話しかけてきたけど、タイ語なのでよく分らない。そこで、ぼくは今朝と同様『旅の指さし単語帳』で会話をすることにした。単語をつなぎ合わせて推測するに、彼女はいま大学生で、授業のない日にはMBKでアルバイトをしているらしい。自分も大学生だと嘘をつくと、彼女はさらに距離を縮めてきた。甘い香水のにおいが漂い、胸の谷間が目の前に迫る。ぼくは動揺を隠そうとタバコに火をつけたが、額からは暑さによるものとは別の汗が流れた。そんなぼくを女性は笑みを浮かべながら見つめ、汗を手でぬぐってくれた。ぼくはさらに動揺した。

 Kさんが現れたのはそのときだった。後ろから彼の呼ぶ声が聞こえると、なぜか女性は急にするりとぼくから離れ、手を振ってそのまま去ってしまった。あまりにもあっけなかったので、いままで白昼夢を見ていたのではないかと思ったほどだ。お邪魔やったかな、とKさんに茶化されたけど、内心、ぼくはほっとしていた。

 彼女が本当に大学生だったのか、それともその手の仕事をしている人だったのかは分からない。そもそも、女性ですらなかったのかもしれない(タイではよくあることだ)。けれど、彼女と触れ合ったことで、ぼくは自分が非日常な世界に飛び込んでいることを再認識させられた。いまだ静まらない動揺をもてあそびながら、ぼくはKさんとともにバンコクの街にくり出した。