豆鳥の巣立ち

旅と小説とその他もろもろ

バンコク ソンクラーンでの出会い

<正直、ソンクラーンは2日で飽きる>

 ソンクラーンの水かけ祭りはだいたい3日間続く。この時期外を出歩く際は、常にスマホや財布などの防水を心がけておいた方がいい。スナイパーはいつどこからあなたを狙っているか分からない。たとえば通りすがりのバイクタクシー。ふいに「Happy New Year!」と声をかけられたかと思うと、次の瞬間には顔を水鉄砲で攻撃して、そのまま走り去っていく。屋台でジュースを売っているおじさんも危ない。ジュースを冷やすための氷水をそのままかけてくるので、冷たいったらありゃしないのだ。でもタイの人は基本的にシャイなので、ほとんどの人は水をかけた後で申し訳なさそうに微笑んでくる。それを見たら別に怒るほどのものでもないと思うし、暑いのでむしろ気持ちがいい。なによりこれはお祭りなのだから、楽しまなければ損だと気づくだろう。

 けれどそんなお祭り気分を楽しめるのは、正直2日目までだ。友達や家族と来ていれば最後まで十分に満喫できるのだろうけれど、ひとりでいると「もういいかな……」とふと我に返ってしまう。そうなったら水をかけられるのがなんだかうっとおしくなり、自分も周りも嫌な気分になってしまう。なにごとも、ほどほどに楽しむのがいいということなのだろう。

 

チェンマイ行きの列車のチケット>

 カオサン通りで水をかけ合い、疲れたら川沿いのホテルでビールを飲んでのんびりする生活を過ごした後、僕はそろそろ別の町に行ってみようと思った。タイを訪れるにあたってこれといった目標はなかったけど、せっかくならぜひ一度会ってみたい人らがいた。首長族だ。

 首長族はミャンマーからの難民で、タイでは北部にあるメーホンソーンの近くに村を設けている。バンコクからメーホンソーンに向かうには、バスか列車、もしくは飛行機という手段があるけれど、このうちバスは体力的な面で、飛行機は金銭的な面で選択肢から消えた。僕はメーホンソーンまで夜行列車で行くことに決めた。

 だがそこでも問題が生じた。メーホンソーンに列車で行くには、チェンマイというタイ第2の都市で乗り換えなければならないのだが、このチェンマイバンコク以上に水かけ祭りが盛り上がることで有名だ。噂ではタクシーの扉を開けてまでバケツの水をぶっかけられるし、粘土も全身が真っ白になるほど塗りたくられるらしく、毎年国内外から多くの観光客が訪れるため、この時期に列車のチケットを取るのはおそらくかなり困難と思われた。

 それでも一応、バンコク中央駅の窓口に行ってみることにした。担当してくれたのは、ふくよかで無愛想な女性職員だった。僕は彼女に「ソンクラーンが終わる夜発のチェンマイ行きのチケットがほしい」と頼んだ。すると彼女は、これだから無知な観光客は、と言いたげな失笑をこぼし、「Nothing!」と僕をはねつけた。まあそうだろう。ソンクラーンなのと、それなのに働かされる女性のことを思えば、満席も彼女の態度も仕方がないと思えた。

「じゃあいつなら空いているか」と僕は続けて尋ねた。すると無愛想な職員は「Next」と答えた。どうやら幸運なことに、その次の夜なら空いているらしい。まあもう1日くらいバンコクを観光してみるのもいいか、と僕はそのチケットを買うことにした。

 

<宿を変えるも外れを引く>

 予定がずれたため、僕はバンコクにもう一泊することになった。いま泊まっている「ベラベラリバーハウス」は居心地がいいので延泊することも考えたが、ここからバンコク中央駅まではけっこう距離があった。それにどうせなら色々な宿に泊まった方が今後の参考になるとも思い、僕は市内中心部に宿を移すことにした。

 次の宿はサラーム駅から少し離れた場所にあった。「リリーズ・ホステル」という名前で、ガイドブックによるとそこのオーナーは中国系らしい。よくチャイナタウンや中国系の宿は値段が安い分ボロいと揶揄されているが、残念ながらここもその類型に該当していた。宿全体が薄暗く、部屋の鍵もあってないような状態だった。だが最もびっくりしたのは、部屋のテーブルになぜか干からびたコーンがこびりついていたことだ。僕はベラベラリバーハウスを出たことを後悔したが、こうなってしまっては仕方がない。どうせ1泊だけなのだから、コーンは見なかったことにしよう。

 

セブンイレブンでの奇妙な出会い>

 すでにソンクラーンに飽きてきてはいたものの、ひとり寂しく汚い部屋で過ごすのは、やはりわびしかった。なので僕はシャワーを浴びて(タイに来てから1日3回はシャワーを浴びるようになった)、街にくり出すことにした。目指すはバンコクの渋谷とも呼べるシーロムだ。ここではカオサン通り以上の盛り上がりが予想され、ソンクラーン最終日を過ごすにはうってつけだと言えた。

 宿からまでは、歩いて10分ほどの距離だった。けれどこの日のバンコクはいつも以上に蒸し暑く、すぐに汗だくになってしまい、僕は目の前のセブンイレブンに避難した。僕がバンコクで生き延びているのは、紛れもなくセブンイレブンのおかげだった。

 クーラーだけ浴びて出るのもなんなので、ついでに飲み物を買おうと飲料水のコーナーに向かった。そこにはひとりの男性がいて、どの飲み物にしようか念入りに選んでいた。この男性は少し様子がおかしかった。彼はなぜか僕の顔をじろじろ眺め、店を出た後もケータイで電話をしながら不自然なほどこちらを見続けていたのだ。

 男性の視線は、僕に先日のトゥクトゥク事件を思い起こさせた。もしかしたらこいつはスリかもしれない。すきがないかをうかがって、僕から金を奪おうと企んでいるのではないか?  その確証はなかったが、用心するにこしたことはない。僕は逃げるようにシーロムへ向かった。早足で立ち去ると、すぐに男の姿は見えなくなったが、彼の視線はいつまでも離れることがなかった。それは比喩的な意味ではなく、本当にそうだったのだが。

 

シーロムでの邂逅>

 狂乱、とはまさにこのことだった。シーロム駅周辺には何千もの人が集まっており、まるでそれがひとつの生き物であるかのように蠢いていた。そこにはなんと放水車まで用意されていて、群衆に向かって勢いよく放水を行っていた。人々の中心にある大型車の荷台には、ステージが設けられていて、そこでタイの有名なR&Bの歌手(おそらく)が歌っており、熱気をさらに盛り上げていた。

 けれどその狂乱の渦に飛び込めるほどの気力も能天気さも、このときの僕には残されていなかった。それに別の場所に移る気もなかった。どこに行っても水をかけられるし、あの宿にも戻りたくはなかったのだ。僕は路肩でタバコをふかしながら、目の前の凄まじい様子をただぼんやりと眺めるしかなかった。

 だが僕はひとりではなかった。ふと横を見てみると、見覚えのある顔があった。そこにいたのは、さっきセブンイレブンで僕に視線を向けていた男性だった。

「すごい光景だね」

 男性は微笑を浮かべながら英語で僕に言った。僕は驚きと緊張のせいで、そうですね、としか返せなかった。もしかしてこの男は、あとをつけてきたのか!?

 けれど恐る恐る話をするうちに、男性は決して悪いやつではないことが分かった。こんがりと日焼けをしているので分からなかったが、彼は韓国人で、休暇でブーケットに行ったついでにソンクラーンを見物に来たらしい。

「でも、ひとりだとさすがにさびしいよね……」

 男性はぽつりとこぼした。どうやら彼もひとり旅特有のもの悲しさに襲われているらしい。それが分かると、さっきまで抱いていた警戒心がほどけ、代わりに共感を覚えるようになった。僕たちはまるで長年の知り合いであったかのように、気ままな会話を交わした。そう、これはまさに一期一会だ。胸に宿したさみしさを、ひとときだけでも忘れさせてくれるこんな出会いこそ、旅の醍醐味なのだろう。

「なあ、これから一緒にメシでも食おうぜ」

 男性がさわやかな笑みを浮かべてそう言った。

「いいね! どっかいい店知ってるの?」

「あっちの通りがおすすめだね」

「へぇ、よく知ってるね」

「当たり前さ。バンコクにはもう何回も来てるからね、向こうには美味いチャイニーズレストランがあるし、ゲイもたくさんいるからね」

「ふーん、そうなんだ。ゲイがたくさんいるんだ」

 ……ん、ゲイ?

「ああ、あそこはバンコクのゲイ・ストリートなんだ」

 男性は満面の笑みをうかべて、ソンクラーンの盛り上がりとは逆の方向を指さしている。僕は最初、それがたわいもないジョークだと思っていた。けれどまっすぐに向けられた彼のつぶらな瞳は、それが彼の本質に関わる重要な要素であることを物語っていた。とたんに僕の背筋が凍りついた。それを察したのか、男性は探るように声を潜めて僕に尋ねた。

「…きみも、ゲイだよね?」

…………

……きみも?……

…………………………

「Nooooooooooooooo!!!!!!!!!!」

 僕はライオンの雄叫びのような声を出し、もげてしまいそうなほど首を激しく横に振った。このときばかりは夢中で水をかけ合っていた人々も僕を振り向き、ゲイの男性はひどくおびえた表情で口を開いた。

「……もしかしてきみは、No gay?」

 僕はこれまでの人生で最も紛れのない一言を発した。

「Yeeeeeeeessssssss!!!!!!!!!!!!」

 それを聞いた男性はひどく切ない表情浮かべ、そうか、とつぶやいた。僕は変に歪んだ笑みを浮かべながら、それとなく彼のもとから離れていった。彼はいつまでも遠ざかっていく僕を見つめていたけれど、すぐに雑踏の中に消えて見えなくなってしまった。もしかしたら彼は、ソンクラーンが産んだ幻だったのかもしれない。

 僕は決して同性愛者や性的マイノリティーの人に対して、偏見を持っているわけではない。でもこのときは状況が状況だけあって(男性は僕を尾行したわけだし)、日本で遭遇した場合の何倍もの恐怖を覚えた。お祭りだから一発ぐらい掘られても大丈夫だろう、とハメを外すようなまねも、当然できるはずがなかったのだ。

 そんな奇妙な出会いの後、僕は街を出歩くのが怖くなってしまった。もう楽しむ気にもなれず、仕方がなくそのまま宿に戻った。そしてソンクラーン最終夜を、干からびたコーンと一緒にわびしくやり過ごしたのだった。

 

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ソンクラーンの時期はいたるところが水浸しになっている。