バンコク 幻のムエタイと深夜のノック
<MBKのガジェットゾーンへ>
まだ時間が早かったこともあり、夕食の前にKさんの買い物につき合うことになった。どこかの屋台にでも行くのかと思いきや、向かった先はまさかのMBKだった。正直またかと思ってしまったけれど、そんなぼくの浅はかな落胆はすぐにかき消されることになった。
就職が決ったらKさんはバンコクで暮らすことになるため、ぼくらはまずインテリアや家電を見て回った。とは言え、このときはただ値段を確認しただけで、Kさんの目当ては別にあるようだった。
エスカレーターで他の階に向かうと、休憩コーナーらしき場所にたどり着いた。そこではゲームセンターにあるアーケードのゲーム機で子供たちがサッカーをしていた。よく見ると、それはぼくも遊んだことがあるウイニングイレブンだった。
「ほら、あれ見てみ」
Kさんが指さした方に視線を向けると、なんと、彼らが操作しているのはプレイステーションのコントローラーだった。
「もしかして……」
「そう。おそらく機械はハリボテで、中にプレステがそのまま入ってるんやろうな。しかもたぶん、無許可で」
にわかには信じられない話だったが、コントローラーから伸びる貧弱なケーブルを見る限り、あながち嘘でもないようだ。ぼくはジャブを受けたようなよろめきを感じながら、先を行くKさんの後に続いた。
そのフロアではスマートフォンやパソコンなどのガジェットが主に売られていた。小さな店がところ狭しと設けられ、ガラスケースの中にはアイフォンやデジカメなどが展示されている。さらにはDVDやCDなども売られているが、Kさんいわく多くはコピー商品であるらしい。昼に来たときはこんなアンダーグラウンドな空気に満ちた場所があるとは気づかなかったので、ぼくは新鮮な驚きを覚えた。それが顔に出ていたのだろう、Kさんは愉快そうに笑いながら、これがタイなのだとぼくに言った。そして、彼はある店の前で立ち止まった。
「ここでなにか買うんですか?」
「うん。面接ない時間はヒマやから、ゲームでも買おうと思って」
Kさんはゲームソフトのパッケージが並ぶガラスケースをのぞき込むと、その中のひとつを店員に取り出させた。それから簡単な英語と電卓による値段交渉がはじまった。5分ほどの闘いが続いた後、店員は店の奥からソフト本体を持ってきて、Kさんはうらめしそうに紙幣と差し出した。売買終了。彼の苦笑いからするに、あまり納得のいく結果ではなかったようだ。
「これ買う金で1日暮らせるんやけどなぁ。まぁいいか」
「それもヤバいやつですか?」
「いや、これは正規のやつやで。値段もまけられへんかったし。ただ」
「ただ?」
「日本では明日発売されるやつやねん、これ。タイだからこそのフライングゲットってわけや!」
そう言って気持ちよさげにAKBの歌を歌うKさんの横で、ぼくはこの国がツッコミどころ満載であることをようやく理解しはじめたのだった。
<ムエタイを見るはずが……>
それから別のフロアを色々と回っていると、最上階のシネマ・コンプレックスへ続くエスカレーターの前に看板が置かれていることに気づいた。それはムエタイの試合を宣伝するものだった。タイ語なのでくわしくは分からなかったが、どうも建物前の広場で月に2度ムエタイの試合が観覧無料で行われるらしい。しかも、今日はまさにその日じゃないか!
これは見に行くしかないと、ぼくらは急いで広場に向かった。そこにはたしかに特設のリングがあった。開始時間まであと10分ほどある。この試合を見物してから夕食にすることにして、ぼくらはタバコをふかしながらそのときを待った。
だが、開始予定時間3分前になっても、一向にはじまる気配がない。多少遅れるのはタイじゃよくあることや、とKさんは落ち着いていたけれど、リングの上にはまだ藁のようなものが敷き詰められているし、集まっているのは白人や東洋人などの外国人観光客しかいない。現地のタイ人は、まるでリングが見えていないかのように次々と通り過ぎていく。
そして開始時間になり、さらに10分が過ぎた。さすがにKさんもおかしいことに気づいて周りの観光客に話しかけてみるが、彼らもよく分らないみたいだ。そこでたまたま通りかかったバイクタクシーの運転手に聞いてみると、あっさり「ノーファイト」と返された。ぼくたち間抜けな外国人観光客はいっせいに落胆の声を上げた。
看板には確かに今日の日付が書かれていたが、もしかしたらタイ人にしか分からない暗号が隠されていたのかもしれない。Kさんは苦笑を浮かべながら、まぁこれがタイや、ともはや決り文句と化した言葉を吐いた。期待したムエタイは見られなかったが、この国では不測の事態は日常茶飯事であることを、ぼくは身を持って知ったのだった。
<バンコクのフードコート>
日も暮れてきたので、ぼくらはようやく夕食を食べに向かった。屋台でもよかったが、せっかくなのでMBKにあるフードコートに行ってみることにした。
ショッピングモールやバスターミナルなどの施設にあるフードコートは、どこも同じような仕組みになっている。タイではまず受付で全店統一の食券を買うことになる。使わなかった分は払い戻しがきくので、多少大目に買っておいても大丈夫だ。あとは目当ての店に行き、好きな料理を選ぶ。英語が通じない店もあるが、大抵メニューに番号が書かれているので「ナンバー1、プリーズ」のように言えば注文できる。ぼくもよく分らないまま、とりあえず目についたご飯の上に鳥肉とキュウリが乗った一品を頼んだ。それが「カオマンガイ」というタイの定番料理であることは、このときはまだ知らなかった。
別の店で選んでいたKさんと合流し、席に着いた。彼はぼくが選んだ料理を目にすると、すこし顔をしかめた。どうかしたのかとぼくが尋ねると、あまりいい選択やないな、手厳しい一言を返された。
「それ、ちょっと量が少ないやろう。いくらした?」
「40バーツでした」
「うーん。高すぎるわけやないけど、屋台やったら同じ量でもっと安いところがあるやろうしな。俺が選んだやつも40バーツやで」
見ると、Kさんの皿に盛られたタイカレーは、ぼくのよりもだいぶ量が多かった。
「タイの食事は基本的には安いけど、日本人にとったら一食の量が少ないねん。やから、食べ歩きするにはいいんやけど、安くすまそうと思ったらなるべく量を出してくれるところを見極めた方がいいで」
言われてみれば確かに今朝のセンレックもそうだった(朝食としてはちょうどいい量だったが)。これからほそぼそと食いつないでいくことになるのだから、そのような観察眼も養わなければならないのだろう。
「あと、意外とコンビニの冷凍のチャーハンとかもコストパフォーマンスがええで」
「あの、ありがとうございます」照れのせいか口ごもってしまった。「Kさんの話はすごくためになります」
「お、おう。そんな褒めても何も出んで。まぁでも、2ヶ月も旅するんやから、物価が安いとはいえ節約せんとな。って偉そうなこと言う割に、俺ゲーム買っちゃってんけど」
謙遜しつつも笑いを取るKさんからは、関西人気質とともに、これからバンコクで暮らすことへの気概のようなものがうかがえた。旅先での貴重な出会いをかみしめつつ、ぼくは久しぶりに食事を楽しむことができた。
<深夜の謎のノック>
夕食を終えてゲストハウスに戻ると、テラスで昨日のおじさんがくつろいでいた。ぼくを見つけると、まだいたのかといういぶかしげな視線を向けられた。昨日こっぴどく叱られたこともあって、ぼくは会釈だけ返してそそくさと建物の中に入った。どうも歳の離れた人は苦手だ。
Kさんの部屋の前にくると、ぼくは改めてお礼を言った。明日ぼくはカオサン通りの方に移動し、Kさんも朝から面接があるので、ここでしばしのお別れになるのだ。
「数カ国巡ったらバンコクに戻るので、そのときはまたお会いしましょう」
「おう。たっぷり就職祝いしてや。じゃぁ、旅、気をつけてな」
固い握手を交わし、ぼくらはそれぞれの部屋に戻った。昨日までは憔悴しきっていたぼくだったが、Kさんとの交流でなんだか旅をやり通せるような気がしてきた。これから先も色んな人との出会いが待っているだろう。心地よい胸の高鳴りを覚えながら、ぼくはしばしの眠りに着くことにした。
ところが、そんなぼくの熱意に水を刺すかのような出来事が起きた。
眠りに落ちてから数時間後、突然、物音が聞こえた。クーラーのうねりかと思ったが、違った。誰かが部屋の扉をノックしているのだ。Kさんだろうかと思い扉を開けようとしたが、ふいに昨夜のおじさんの言葉が頭をよぎった。
「夜中にノックをされても、絶対に扉を開けたらだめですよ。そういう場合はたいてい、強盗か娼婦なんですから」
よくよく考えてみれば、明日早いKさんがこんな時間にぼくを尋ねてくるはずがない。だとしたら、強盗か。扉の向こうでナイフか何かをぼくに向けているのだろうか。それとも、夕方に出会ったあのタイ人女性だろうか。彼女はやはり娼婦で、日本人のぼくをカモとにらんで夜中に押し掛けてきたのだろうか。いやもしかしたら、あのおじさんがぼくを説教しにきたのかもしれない。ほら、昨日あれほど言ったのに扉を開けた。そんなんじゃいつか必ず殺されますよ……。
ノックはしばらくして止んだ。けっきょく、正体が誰なのかは分からなかった。けれどその音は、ぼくの心をかき乱すのに十分すぎるほどの衝撃だった。やっぱり、異国は怖い。いますぐ日本に帰りたい。ぼくは初日のようにすっかり怯えてしまい、情けないほど震えながらその夜を過ごしたのだった。