豆鳥の巣立ち

旅と小説とその他もろもろ

バンコク 謎の日本人のおじさん

【ようやく宿に】

ホワイト・マンションは、その名の通り白のペンキが塗られたゲストハウスで、建物自体は新しくはないが、決してボロいというほどでもなかった。中に入ると、ひまそうなおばさんがカウンターに座ってのんびりとくつろいでいた。彼女はぼくに気づくと、面倒臭そうに早口で英語をまくしたてた。

「エアコンディショナー?」

 何を行っているのかほとんど分からなかったが、それだけは聞きとれた。とりあえずイエスと答えると、おばさんは引き出しからカギを取り出して、ぼくを奥の部屋へと連れて行ってくれた。

1階の1番奥にあるその部屋は、ベッドだけが置かれた非常に簡素なものだったものの、トイレとシャワーがついていた。と言っても、中学校のプールに備えつけられているような必要最低限のものだったが。いくらかと尋ねると、彼女は500バーツと答えた。この値段が高いのか安いのかはよく分らなかったが、これから他のところをあたる気力も残っていなかったので、チェックインすることにした。

 

【シャワーで洗濯】

さっそくシャワーを浴びてさっぱりしたら、次に汗でびしょびしょになった服を洗濯することにした。ビニール袋に洗剤と服を入れ、そこに洗面台の蛇口から水をそそぐ。手で服の汚れを落としたら、水を捨てて今度はシャワーで泡を洗い落とす。しっかりと絞って水を抜き、最後は部屋にかけた紐に服を吊るして部屋干しする。なかなか重労働だが、少しでも節約する必要があった。それに水浴びも兼ねているので、案外気持ちよくもあった。

 身も心もリフレッシュしたら、空腹であることを思い出した。けれど、炎天下に出たらまた汗が湧き出てシャワーを浴びた意味がなくなるし、もう一歩も動きたくなかった。なので、飛行機の機内で配られたクッキーだけを食べ、本格的な食事は日が傾いてから取ることにした。

クッキーをあっという間に食べ終えたら、だらりとベッドに寝転がった。待ってましたとばかりにすぐに疲れと眠気が襲ってきて、ぼくはそのまま眠りに落ちてしまった。

 

【謎の日本人のおじさん】

 目が覚めたころには、日もだいぶ傾いていた。飯でも食いに行こうと思ったが、その前に無性にタバコが吸いたくなったので、まずは一服することにした。

 ゲストハウスの前に設けられたテラスでタバコをくゆらせながら、通りを行き交う人々を眺める。ぼくと同じようにバックパックを背負った旅行者もいれば、屋台を引いて歩くタイ人もいる。道路の向かいには暇そうにしているタクシーの運転手がいて、なにやらぼくを見ながら指を天に向けている。指先に目を向けると、1本の木があり、耳を澄ますと、その葉の茂みから鳥のさえずりが聞こえた。なんてことはない鳴き声だったが、日中の喧騒とは異なるバンコクの穏やかな一面をかいま見られた気がした。

 タバコを吸い終えると、食事に向かおうとした。だがそのとき、ふいに後ろから日本語で話しかけられた。

「日本人の方ですか?」

 振り返ると、白のTシャツに短パンをはいた初老の男性が立っていた。最初、ぼくは彼が日本語の上手いタイ人だと思った。日焼けした肌もそうだが、なにより雰囲気が完全に現地の人のそれだったからだ。けれど、ぼくが日本人ですと答えると、彼は自分もそうだと顔をほころばせて他にも色々と尋ねてきた。観光で来たのか? どれくらい滞在する予定だ? などと言った質問に答えているうちに、ぼくは食事に出る機会を見失ってしまった。けれど、慣れない異国の地で日本人に出会えたことで、不安が少し解消されたことも確かだった。

 それからゲストハウス前のテーブルを囲んで、そのSさんとしばらく話すことになった。彼は自称「タイ人よりもタイに詳しい男」で、仕事を退職した後はこうして悠々自適にタイで暮らしているらしい。ホワイト・マンションのオーナーとも懇意にしているらしく、バンコクでは必ずここで滞在すると決めているそうだ。

「でも珍しい。あなたくらいの年齢の人は普通カオサンの方に行くのに。ここは中級者向けの場所ですよ」

「いやぁ、最初はそちらに行こうとしたんですけど、道に迷ってしまって」

「えっ」

 Sさんは少し耳が遠いらしく、話の途中で何度も聞き返してくる。

「道に迷ったので、もうここでいいやってことにしたんです。明日カオサンの方に行こうかなって」

「ああ、そうですか。海外旅行は何度目なんですか?」

「初めてです」

「えっ」

「タイが海外初体験なんです」

 それを聞くと、彼は驚いたというよりは呆れた顔を見せ、しまいには同情するかのような表情を浮かべた。

「人種のるつぼと呼ばれるタイに、よくもまあ……」

Sさんのもの言いはあまり心地よくなかったが、海外経験の長い彼の話は、タイだけでなく旅そのものの知識が不足しているぼくにとっては貴重だった。いわく、今年の1月からタイの最低賃金が引き上げられたのと、アベノミクスによる急激な円高のせいで、『地球の歩き方』に乗っているホテルの料金表はあまり当てにならないらしい。後になってすべてのホテルがそうだとは限らないことに気づいたが、確かに値上げしているところも多く、ガイドブックをそのまま信じてはいけないのだと教わった。それから、おすすめのゲストハウスや移動手段、タイで守るべき文化なども聞き出すことができた。ただ、学生かと尋ねられた際は、とっさに大学院生だと嘘をついてしまった。就職もせず旅に出ている後ろめたさが、そうさせたのかもしれない。

 

バンコクで就活中の日本人】

 話し始めて30分ほど経ったこと、また聞き覚えのある言葉で誰かに話しかけられた。

「日本の方ですか?」

 声の方に目を向けると、真っ黒に日焼けした線の細い青年が立っていた。彼の見かけはタイ人とそっくりだったが、Sさんと違ってすぐに日本人だと気づいた。体から放つ空気が、どうも周りの空気と調和し切れていない感じがしたのだ。そうです、とぼくがさっきと同じように答えると、青年は自分もだとうれしそうに言いながらこちらに歩み寄ってきた。どうやら、タイには意外と日本人が多いようだ。

 その人はKさんと言って、日本ではSEとして働いていたらしい。だが、向こうではこの手の仕事は飽和状態にあって、収入も労働環境もあまりよくない。そこで心機一転、日本を離れてバンコクで就職活動をすることにして、現在はホワイト・マンションに滞在しながら日系のIT企業への就職活動に取り組んでいるのだそうだ。陽気な性格で、母国を離れて1人で挑戦するだけの自信を漂わせた好青年だった。

「もちろんタイやと日本より収入が減りますけど、いま受けている会社は月収22万円を約束してくれてるんです。それだけあったら、こっちやとそれなりにいい暮らしができますしね」

 Kさんは関西弁混じりのなめらかな口調で話した。おそらく、その話術はサラリーマン時代に培ったものなのだろう。彼はまるで得意先から契約を取りつけるかのように、Sさんにバンコクで部屋を借りるとしたらどれくらいの相場なのかを聞き出そうとした。だが、さっきまであれだけぼくに情報を教えてくれたSさんは、急に話を渋りはじめた。

「まあねぇ、郊外に住んで1万バーツとか……」

「そうなりますよね。でも、ぼくの希望としては、駅が近くにあって、あとエアコンもほしいんです。やっぱタイって暑いじゃないですか。ぼく、扇風機だけやと熱中症になってしまうんですよ。そう考えると、2万、3万バーツはかかりますかねぇ」

「えっ?」

「駅に近いところだと、なんぼくらいですかね?」

「……日本人がバンコクで働くのは、そんな簡単なものじゃないですよ」

「えっ?」

「えっ?」

 お互いに聞き直したので、変な間が生まれた。先に口を開いたのはSさんだった。

「私の知り合いはね、3万バーツで働かされてますよ」

 その声には苛立ちのようなものが込められていた。そして、とうとうSさんは、Kさんとなぜか僕に対して説教をはじめてしまった。

「タイで生きるのは、そんなに甘いことではないのですよ。タイ人はとてもプライドが高いですからね、そう簡単に外国人にいい仕事を与えてはくれません。タイ人にこき使われて、肉体労働を強いられている日本人を私は何人も知っています。挙句の果てには、仕事をなくして、犯罪に手を染める人もいます。そんなに上手くいくかどうか」

「いや、でも」Kさんが反論するように言った。「ぼくが面接を受けたところは、日系企業ですし、一応技術職ですからね」

「えっ?」

 Sさんはまた聞き返したが、Kさんは何も言わなかった。テーブルの下で激しく貧乏ゆすりをしているので、かなり苛立っているのだろう。ありがたい忠告だが、これから新天地で頑張ろうとしている人にとってはいささか水を指さす話ではあった。

「タイはね、恐ろしいところです。いままで何人もの日本の若者に会いましたが、どうも考えが甘い。ここが外国だってことをあまり考えていない方が多過ぎるんですよ。ええ、そうですとも。海外で生きるのはそんな甘いもんじゃないんですよ」

 

【旅の初日で説教される】

 だんだんと愚痴のようになってきたSさんの話が一区切りつくと、Kさんは明日も面接があるからと自分の部屋へと帰ってしまった。Kさんがいなくなると、Sさんの話し相手は僕だけになった。僕は空腹で仕方がなかったが、Sさんは食事以上の価値があると言わんばかりに話を続けた。

「就職活動をしてるだなんで、どこまで本当なのか」

どういうことかと尋ねると、彼は声をひそめて、まるでぼくを脅しつけるかのように話を続けた。

「私はこれでも日本では国税局に勤めていましてね、脱税している人間を何人も摘発しました。だから、嘘をついている人間はすぐに見破れます。これはあなたより少しだけ長生きしている人間からの忠告ですがね、簡単に日本人を信じてはだめですよ。ここではタイ人よりも日本人が怖いんです。彼らは帰る場所なんてないんだから、なんでもしますよ。麻薬を荷物に忍び込まされて、空港で捕まった日本人の話を知ってますか? ここでは犯罪の片棒を担がされるだけで、死刑になってしまうこともあるんですよ。最悪、あなただけの問題ならいい。あいつらは、あなたをエサに、あなたのご両親をゆするんですから。あなたみたいな人はね、私らから見たら格好のカモなんですよ。きれいな服を着て、日焼けも全然していない。ああ、この人は旅慣れていない日本人なんだって一発で見分けられますよ。それにさっき、あなたは私にどこに泊まっているだとか、所持金がいくらだとかを簡単に教えてしまいましたよね。そんなこと、初対面の人に言っては、ダメ。どこでこの話を盗み聞きしている人が居るか分かりませんからね。つい先日も、このホワイト・マンションの私の部屋に空き巣が入ったんですよ。いえね、私はちゃんと二重ロックをかけていましたから、なんとかカギを壊されただけで済んだんですが。つまりは、それくらい危ないところなんですよ、このバンコクは。なめてかかると痛い目に会うんだってことを、よく理解しておいた方が身のためですよ」

 思わずたじろいだ。Sさんの言い分は最もで、ぼくはどこか海外をなめてかかっていた部分があったのだ。ここまでの道のりもそうだ。簡単に目的地につけると思っていたら、道に迷って結局着けずじまいになってしまった。今日は運が良かったものの、この調子であと2カ月も旅を続けられるとは、考えるまでもなく難しいことだった。

 それに、Sさんの「日本人を信じるな」と言う言葉が重くのしかかった。実は、さっきのKさんはぼくの所持金を狙っていたのかもしれない。そして、この言葉は裏を返せば、それを口にした自分も危険な人物であると、Sさんは暗にほのめかしているのではないか? ぼくはなんだか周りの人全員が悪い人のように思え、疑心暗鬼に陥ってしまった。

「あなたも着いたばかりで大変ですね」Sさんはまるで他人事のように言った。「初日にこんなひねくれたじいさんに会ってしまって」

「そんなことありません。ためになるお話、ありがとうございました」

「えっ?」

「いや、なんでもありません」

 すっかり外は暗くなっていた。夜になっても通りは人や車が行き交っていたが、その中へ飛び込む勇気は、そのときのぼくにはもうなかった。僕はSさんに断って、自分の部屋に戻ることにした。

「私の言葉で気落ちするか、何くそと思うかで旅の楽しさは変わってきますよ」

 去り際に、彼は笑いながら留めを刺すようなアドバイスをぼくにくれた。

「でも、あなたはいつか痛い目に合うでしょうね。そのとき、私の言ったことの意味が分かると思いますよ」

 

【初日で帰りたくなる】

 部屋に戻ると、急にめまいがしてそのままベッドに倒れこんでしまった。空腹のせいだろうが、もう外に出る勇気がなかった。目を閉じると、今日見て歩いた異国の街並みが思い返される。そして、さっきのSさんの忠告が頭をよぎり、これからあと2ヶ月1人で過ごさなければならないという事実に胸が押し潰されそうになった。いますぐ帰りたい。そんな弱気な気持ちが芽生えるが、まだ何も成し遂げてはいないという理性がその芽を踏みつける。けれど、不安の芽はいくら踏んでも次々に顔を出してしまう……。

 そうやって葛藤しているうちに、気づいたら有無も言わさぬ深い眠りがぼくを襲った。そんなこんなで、旅の初日が幕を下ろした。

 

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 バンコクの夜。仲睦まじいタイ人のおばちゃんと白人のおじちゃん