豆鳥の巣立ち

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プラハ 2つの広場と3人のヤン

<旧市街地と新市街地>

 プラハの中心部は大きく分けて5つの地区に分けられる。モルダウ川の西岸にあるプラハ城周辺のフラッチャニ地区と、その城下のマラー・ストラナ地区。東岸にある中欧最古とも言われるユダヤ人地区、そして旧市街地と新市街地だ。これらの大部分は「プラハ歴史地区」として1992年に世界遺産に登録され、四六時中観光客でにぎわっている。

 このうち、観光の目玉は旧市街地に、プラハ市民の生活の中心は新市街地に集中している。また興味深いことに、この2つの地区は似たような構造と歴史がある。どちらも中心地に広場があり、「ヤン」という同じ名前の別の男が讃えられているのだ。今回はこれらの地区を比較することで、プラハの街の歴史を探ってみたい。

 

<旧市街広場とヤン・フス

 まず紹介するのが、前回の文章でも紹介した旧市街広場だ。ここでは11世紀ごろの商業発展を機に様々な建物が建設され、まさにプラハの歴史を縮小した場所であると言える。これから広場にある有名な建造物をいくつかご紹介しよう。

 

①    ティーン教会

 広場の東側にあるな2本の塔が特徴的なこの建物は、ティーン教会である。ここは1135年に建てられたのだが、当時は外国の商人の宿泊施設に併設された程度のものに過ぎず、現在の荘厳な造りに改装されたのは1365年のことである。なお、ティーンとは税関を意味するらしく、もともと教会の裏側に税関があったためその名前がつけられたらしい。

 

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 奥にある2本の塔があるのがティーン教会

 

②    天文時計

 旧市庁舎の下に設けられた天文時計は、プラハを訪れた観光客が必ず訪れると言っていいほど有名だ。

上の円はプラネタリウムと呼ばれ、地球を中心に回る太陽や月などの天体の動きを示している。下の円はカレンダリウムで、占星術などでよく使われる黄道12宮を表しており、周縁に設けられた輪が1日にひと目盛りずつ動く仕組みになっている。

そして、この時計1番の見どころは、毎日9時から21時の毎正時に起こる伝統的な仕掛けだ。長針と短針が0時を指した瞬間、プラネタリウムの横にある死神が鐘を鳴らしはじめる。同時に、中央上部にある天使のとなりの窓が開き、そこから12使徒が次々と顔をのぞかせる。観光客がそれに見とれていたら、ふいに最上部に鶏が現れてコケコッコーと鳴き、塔の上でトランペットが演奏される。最後は周りに集まった観光客の割れんばかりの拍手で、仕掛けは幕を閉じるのである。

 もちろん、その仕掛けだけでも楽しいが、前回もご紹介したとおり、旧市庁舎にある礼拝堂は結婚式場として人気があるので、運が良ければ当日式を挙げる新郎新婦の姿を見かけることになるだろう。ぼくのときもそうだった。仕掛け時計が動くのを待っていると、突然白いリムジンが現れて、中から新郎新婦が現れたのだ。そして、12時ちょうどの仕掛けが動き、鐘の音が鳴ったと同時に、2人は熱い口づけを交わしたのだ。周りにいた見ず知らずの観光客たちも彼らに盛大な拍手を捧げ、なんとも絵になるロマンティックな一幕だった。そのときの様子が、この動画である。

  


プラハ 天文時計 - YouTube

 

③    聖ミクラーシュ教会

 写真の左側にある白い壁の建物が聖ミクラーシュ教会である。設計者はキリアーン・イグナーツ・ディーンツェンホファーというやたら長い名前のボヘミア・バロックの巨匠で、18世紀に完成した。教会の中は荘厳な天井画やバロック様式の彫刻などが置かれており、夏にはコンサートなども開かれる。

 ちなみに、聖ミクラーシュとはサンタクロースのことで、チェコでは12月5日のミクラーシュの日はクリスマス以上の盛り上がりを見せる。その日は街中が仮装した人であふれ、さながらハロウィンのようであるそうだ。

 

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 左にある建物が聖ミクラーシュ教会。右の手前にあるのがヤン・フス像。

 

④    ヤン・フス

 聖ミクラーシュと同じ写真の右側にあるのが、ヤン・フス像である。

ヤン・フスは15世紀の宗教改革の先駆者で、カレル大学の総長であると同時にベツレヘム礼拝堂の説教師も務めており、当時のチェコの人々から絶大的な信頼を得ていた。しかし、彼は堕落したカトリック教会を痛烈に批判したことで、コンスタンツ公会議において異端と見なされてしまい、1415年に火炙りの刑に処せられた。それに衝撃と怒りを覚えたフス派の信者らはカトリック教会と対立し、フス戦争が開戦されたのである。

 長きにわたって外国の支配下にあったチェコ人の間で、自らの信念を貫き通したヤン・フスの人気は根強い。とりわけ彼が死の間際に遺した「「Pravda vítězí(真実は勝つ)」」という言葉は、1920年のチェコスロヴァキアの独立時の標語になり、現在も大統領府の旗に刻まれているほどだ。だが、ヤン・フスの死から500年も後に、彼と同じような意思と名前、そして死に方をした若者たちが登場するなどとは、誰も予想できなかっただろう。

 

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 夜の旧市街広場。

 

<ヴァーツラフ広場とヤン・パラフ、ヤン・ザイーツ>

 旧市街広場がプラハの近代までの歴史を物語っているとしたら、新市街地にあるヴァールラフ広場はチェコスロヴァキア時代から現在に続く近過去を物語っている。広場というよりは大通りのようだが、この場所は民主化を巡る血なまぐさい舞台として知られている。

 

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 ヴァーツラフ広場。奥の建物は国立博物館。手前の銅像はボヘミア最初の王である聖ヴァーツラフ。

 

第2次世界大戦後、ナチスドイツの支配下から解放されたチェコスロヴァキアは、今度は社会主義国として事実上ソ連の強い影響下にあった。しかし、国民の間では民主化運動の機運が高まり、1968年に改革派のドゥブチェクが第1書記に就任することになった。この民主化への一連の流れが、「プラハの春」である。ドゥブチェクは開放的な政策を次々と実施していったが、自国への影響を恐れたソ連をはじめとする東側諸国はそれを危険視し、ついに同年8月21日にワルシャワ条約機構として軍事介入した。戦車がヴァーツラフ広場を占領し、ドゥブチェクも解任され、民主化の流れは強引に途絶えさせられてしまった。春はあっけなく終わってしまったのである。

 プラハ市民はこの軍事介入に抗議し、多くの人がヴァーツラフ広場に座り込んでの抗議を行った。中でもヤン・パラフとヤン・ザイーツいう2人の若者の愛国心は相当のものだった。カレル大学の学生であった彼は、民主化への学生運動に携わっていたが、それが頓挫したことへの失意と抗議の表明として、パラフは1969年1月19日に、ザイーツは同年2月25日に、この広場で自らの体に火を放ち自死した。同じ名前の偉大な先人になぞらえてそうしたのかは分からないが、それによって、彼らもまたチェコの英雄となったのだ。

2人若者の夢は、死後20年が経ってようやく叶うことになる。1989年11月17日に起きたビロード革命によって共産党政権は倒され、この国にようやく民主化がもたらされたのだ。ぼくがプラハを再訪した日は11月18日だったが、その前日の17日は「ビロード革命記念日」として、ヴァーツラフ広場には民主化を祝うために多くの人が集まっていた。その証拠に、翌日の朝撮った写真には、彼らの祈念プレートの周りには追悼のろうそくがいくつも灯されていた。

日本人、とりわけビロード革命以後に生まれたぼくにとって、社会主義民主化運動はよく分らない遠い存在のように感じられるが、チェコの人々にとってはつい最近の出来事なのだ。そして、そのために多くの命が失われたことを、彼らはいまもこれからも忘れることはないだろう。

 

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 ヤン・パラフとヤン・ザイーツのモニュメント。多くのろうそくが捧げられている。

 

<観光の前に>

旅行スタイルは人それぞれなので、ただ観光するだけでももちろん構わない。でも、言う前に歴史的な背景を予習しておいたが、よりその地を楽しむことができる。プラハに関して言えば、この新旧市街地にある2つの広場と、なにより3人のヤンという名前の偉人のことは知っておいた方がいいだろう。真実と民主化を求め闘い、散っていった彼らがいるからこそ、いまのプラハは存在しあり、多くの観光客が自由に訪れることができるのだ。

 

<補足>

 プラハの春やヤン・パラフについて知りたい人は、「プラハの春」春江一也著(集英社)という小説にくわしく描かれているので、そちらを読んでいただきたい。