豆鳥の巣立ち

旅と小説とその他もろもろ

このブルノ観光記はあまり役にたちません

<ブルノ市民はわざわざブルノを観光しない>

 ブルノではあまり観光らしい観光はしなかった。だらだらと「外こもり」に近い生活を過ごしていたからでもあるが、それ以上に、この街を観光することにあまり興味が湧かなかった。わざわざ観光目的で大阪城に登る大阪人がいないように(いることはいるだろうが、あれはあまりにも日常に溶け込み過ぎている)、集合団地の人らに混じってスーパーで買い物をしていたら、なんだか自分が観光客ではなく、ブルノ市民であるかのような気がしたのだ。

 だが、それではこの街に来た意味がないから、ブルノで訪れた観光スポットを少しだけご紹介する。はじめに断っておくが、これはぼく自身の怠惰が原因であり、ブルノの街に見どころがないという意味ではないので、あしからず。

 

<シュピルベルク城跡にて>

 日本でも海外でも、ぼくは新しい街に来たらとりあえず城を見に行く(外から見るだけなら基本的にタダだから)。ここブルノでもそうだった。

市街地の西側にある自然公園のような敷地内を登ると、シュピルベルク城跡にたどり着く。この城は13世紀にボヘミア国王プジェミスル=オタカル2世によって建造された。17世紀からは監獄として使われ、第2次世界大戦時にはナチス・ドイツがチェコ人を収容したことでも知られる。かつての監獄は一般公開されているが、ぼくが行ったときは午後からしか開いてなかったので、興味がある人は事前に時間を確認しておいた方がいい。

 監獄の他にも、城の敷地内には塔や博物館などがある。それぞれを見学するには共通のチケット(200コロナ、約1000円)を買わなければならないが、その額を払って余りある内容だ。

 まず、塔から一望するブルノの景色。手が届きそうなくらい近い青空の下、赤い屋根の建物が並ぶ街並みは、まさに壮観だ。吹きつける風は少し寒いかもしれないが、ここで景色を眺めながら、ぼんやりともの思いにふけるのもいいかもしれない。

 

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シュピルベルク城跡からの景色

 

塔の次は、博物館を観に行くのがいいだろう。展示内容はブルノの現代アーティストの作品や、調度品、はてはアーキテクチャーと、様々な角度からブルノの街の歴史に迫っていて、全部見て回るのが大変なほど充実している。

 特にぼくが気に入ったのは、現代アートの展示だ。ブリキのおもちゃをモチーフとしたかわいらしい作品もあったが、なんだかどれも不気味でうす気味が悪かった。それは、作品の多くが1968年のプラハの春前後に作られたという時代背景があるからだろう。ヤン・シュバンクマイエルの映画や、カフカの小説(もっとも彼はドイツ語作家だが)に見られる寓意性と得体のしれない恐怖が入り混じった独特な雰囲気は、チェコ特有のものなのかもしれない。

ただ、シーズンオフなのと平日だったためか、博物館に入ってから出るまで、客はぼく1人しかいなかった。作品をゆっくりと観て回れるのはよかったが、かえって係員の視線が気になって落ち着かない。係員らもかなりヒマなようで、ぼくがいるのも構わずおしゃべりしていて、これで経営は大丈夫なのかと余計なお世話を覚えてしまうほどだった。

 

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 シュピルベルク城の城壁

 

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 城跡内の交通標識。セグウェイで登る人がいるという衝撃。

 

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 誰?

 

<聖堂と市場>

 城を観た後は、旧市街地に下りてみよう。旧市街地は半径500メートルほどにまとまっており、街歩きにはちょうどいい規模だ。路面電車も走っているので、1日もあれば隅から隅まで見て回ることができるだろう。

 城から10分ほど歩くと、右手にひときわ目を引く大きな建物がある。それが聖ペテロ聖パウロ大聖堂だ。ここは1092年に建てられたロマネスク様式の教会がもととなっているが、その後の30年戦争で1度消失してしまったので、現在のようなネオゴシック様式になっている。特徴的な2つの尖塔には登ることができるらしいので(ぼくは登らなかったが)、城からとはまた違った景色を楽しむことができるだろう。

 

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 聖ペテロ聖パウロ大聖堂。ペテロなのかパウロなのかはっきりしてほしい。

 

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 聖ペテロ聖パウロ大聖堂の近くにあったモニュメント。友愛がテーマか。

 

 旧市街地の中心にある緑の広場では、青果市場が開かれている。この市場は13世紀から続く伝統的なもので、新鮮な野菜や果物だけでなく、ホットワインなども売られていた。規模は小さめで、季節のせいなのか屋台の数も少なかったが、ブルノらしい素朴な光景が広がっていた。

 

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  青果市場。真中の奥にあるのは噴水。

 

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 建物の壁に描かれたアート作品。なお、ベンチに座るおばあちゃんは本物です。

 

<旅の途中の休息地>

 ブルノには他にも興味深い観光スポットがたくさんある。ぼくは行かなかったけれど、旧市街地には「メンデルの法則」で有名なメンデル博士の博物館があるし、少し離れたところには近代建築の名作と誉れ高いトゥーゲントハート邸という世界遺産がある。また、この街を起点として、オロモウツやレドニツェ城といったモラヴィア地方の観光地を訪れるのもいいだろう。

 とは言え、観光をほとんどしていないやつがおすすめの場所を紹介するのも無責任な話だ。なんだか無理やり文章を書き連ねている感がいなめないので、今回は次の段落を最後に筆を置くことにする。

けっきょくのところ、ぼくにとってブルノは、観光地ではなく旅の途中の休息地だった。どこか日本と似た雰囲気が漂うこの街で、なにもせずだらだらと過ごしたからこそ、この後数カ国を訪れる気力や体力を取り戻すことができたのだ。そして、観光や希少な体験をするだけが旅のすべてではないことを、この街は教えてくれたのだった。

 

日本の地方都市ブルノ

モラヴィアの代表都市ブルノ>

 チェコは大きく3つの地方に分けられる。首都プラハがある西部のボヘミア、ポーランドと国境を接する北東部のシレジア、そして東部のモラヴィアである。この3つの地域に住む人々は厳密に言えば異なる民族であり、古来より周辺の大国に翻弄されてきたこの国の複雑な歴史を物語っている。

ブルノはその中のモラビア地方を代表する都市であり、チェコ全土でもプラハの次に規模が大きい。ロードレース世界選手権のチェコグランプリが開催されることで有名で、その時期には観光客であふれ返り、ホテルの宿泊料も高騰するとのことだ。でも、ぼくが訪れた11月はオフシーズンで、どちらかと言うと街に人はまばらだった。今回は、そんなあまりいい時期ではないブルノでの記憶を綴ることにする。

 

<どこか懐かしい地方都市>

 クトナーホラというプラハの近くにある田舎町から、列車で約2時間半かけてブルノに来た。チェコ第2の都市だけあって、駅前には巨大なショッピングモールがあり、街中には海外資本のブランドショップやファーストフードが軒を連ねている。プラハと遜色がないほどの発展具合に目を見張ったが、同時に、はじめてこの街に来たのになぜか既視感を覚えた。

 予約した街はずれのホテルへ歩いて向かうと、その既視感はますます強まった。郊外に出ると、建設中の工事現場や大型のスーパー、整然と並ぶ団地などが目に入る。ホテルの近くにも学校や住宅地があって、登下校中の子供たちや犬を連れて散歩をするおばあちゃんなど、ブルノの人々が飾らない生活を過ごしている。それらはどれも、どこかで見覚えのあるものばかりだった。

そうだ、ここは日本の地方都市に似ているのだ。中心地だけが飛びぬけて華やかで、一歩街の外に出れば急にさびた雰囲気が漂っている。ぼくが日本で住む街も同じような構造だった。だから、日本から何千キロも離れた異国であるはずなのに、日本のどこかの街を歩いているような気がして、ぼくは懐かしささえ覚えたのだった。

 

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  ブルノの街並み。どことなく日本の地方都市とダブる。

 

<社会主義時代のホテル>

 ぼくが泊まったホテルはかなり年季が入っていた。まだ夕方だからか明かりがついておらず、ロビーは暗く青白かった。ベルを鳴らすと、従業員らしき女性が奥から現れた。きれいな白人女性だったが、控えめで影のある印象を受けた。

手続きを済まし、ぼくは6階にある自分の部屋までエレベーターで行くことにした。このエレベーターもまたぼろかった。扉は手動式で、3人も乗ればぎゅうぎゅうになるほど中はせまい。ボタンを押すと、がたんと大きな音を立ててゆっくりとエレベーターは上昇していき、いつ止まってもおかしくないほどがたがたと揺れている。密室ではないので、外からのすき間風が中に吹き込んできてかなり冷える。なんとか無事に目的の階まで着くと、ぼくは思わずほっと胸をなで下ろした。

フロアーも明かりがついてなくて、うす暗く静かだった。まるで映画「シャイン」の舞台のようで、これからなにかしらの事件や怪奇現象が起きそうな雰囲気だ。けれど、うす気味悪いのはたしかだが、辺りに漂うほこりっぽい空気はなかなか味があった。

室内もテレビや冷蔵庫などはなかったが、清潔でベッドも大きかった。それになにより、ビュッフェ形式の朝食もついているのだ。シーズンオフのためでもあるのだろうが、これで1泊20ユーロはかなりお得だと言えた。

ここもむかしは一流と呼べるホテルだったのかもしれない。だが、いまは老朽化が進み、ぼくみたいな貧乏旅行者でも泊まれるくらい安い値段で部屋を提供している。チェコは25年も前に社会主義から民主主義という大きな転換を迎えたし、いまのブルノの街も再開発が進んでいる。でも、このホテルはそんな時代の流れから取り残さてしまったかのように、ひっそりと街外れにたたずんでいた。

 


 ブルノのホテルのエレベーター - YouTube

 

<スーパーで買い物>

ぼくは今回の旅行の食事は、たいていスーパーで買ったパンと飲み物で済ませていた。キッチンがある宿にも泊まったけど、面倒なのと料理下手を自覚しているので自炊はしなかった。宿の朝食バイキングで腹を満たし、小腹がすいたらパンでしのいでなんとか1日もたす、そんなかなりわびしい食生活だったが、その分浮かしたお金でたまに食べるご当地料理は、空腹が調味料となって、贅沢な旅行をするときよりも格別に美味いのだった。

ブルノでも、ホテルのすぐ近くにビラ(BILLA)があった。このビラとアルバート(ALBERT)、そしてテスコ(TESCO)の3つのスーパーに、旅行の間何度助けられたか分からない。あまりにもしょっちゅう通うものだから、いっそポイントカードを作ろうかと考えたほどだ。

スーパーに来る利点は、なにも安く済ませられるだけではない。ここに来ると、現地の人々の食習慣が垣間見られるので、商品棚を見るだけでも十分楽しむことができるのだ。

まず日本人が驚くのが、商品の量の多さだ。たとえば缶ビールは500ミリリットルからしかなく(超大型店にはあるけど、街中の店ではほぼない)、飲み切るのはけっこう大変だ。その逆に、カップ麺やインスタント食品は日本のものと比べると量が少なく、味もそれほど美味しくはなかった。

生鮮食品に目を向けると、魚介類はあまり種類がないが、その代わり肉や乳製品が豊富にそろっている。1つの棚が全部チーズで埋まっていることもしょっちゅうだ。

それと、なぜかジュースや牛乳が、冷蔵ケースではなく普通の棚に並べられている。痛むのではないかとこっちが心配になるが、そのあたりは習慣の違いなのだろう。

また、中欧のスーパーは商品だけでなく、レジの仕組みも日本とは異なっている。日本ではかごからかごへ店員が商品を移して精算するが、中欧では客が自動で動くレーンに商品を乗せて、流れてきた商品を店員が精算する仕組みになっている。商品を乗せたら前後の人のものと区別するため仕切りを置き、かごは精算の前にレジの横に重ねて片づけておく。向こうの人は1度にたくさん買うので、その方が効率がいいのかもしれない。なお、レジ袋は有料なので、客はみんな自前のカバンを用意している(もしくはカートでそのまま車まで持って行く)。エコの面でも、日本と比べて進んでいると言えるだろう。

 

<旅の息切れ>

そうやって、観光を終えた夕方くらいにスーパーで買い物し、ホテルの部屋で日本から持ってきた本を読みながらパンをかじっていると、やっぱり日本での生活と代わり映えがしなかった。せっかく異国に来たのになにをしているのだと自分でも思ったが、それが楽なのもたしかなのだ。日本と似た街で、日本と同じような生活を送る。異国に来てこのときまだ1週間ほどしか経っていなかったが、ぼくは早くも疲れているのかもしれない。

旅をしている人の間で、「外こもり」という言葉がある。これは簡単に言うと、日本よりも物価が安い国に長期滞在して、外出もせず宿の部屋でうだうだと過ごすことだ。タイのバンコクは物価が安くてコンビニもあるので、そんな外こもりをする日本人が多いのだけど、このときのぼくもそれに片足を踏み込んでいた。

 幸いなことに、今回は旅程も決っていてチェコの物価も言うほど安くはなかったので、すぐにその状況から抜け出すことができた。でも、これが期限を決めていない、もっと物価の安い国に滞在していたら、どうなっていただろう? ぼくはなにも外こもりを否定するつもりはないが(海外に出て学んだのは、旅も生き方も人それぞれだということだ)、まだそこに落ち着くには早いような気がした。

ここで終わってはいけない、いまはただ息切れしているだけなのだ。そう自分に発破をかけてみるけど、ベッドに埋めた体はなかなか起き上がろうとはしなかった。

(ブルノの市内観光については次回)

 

ブラチスラヴァはアートで素朴な街

<地味?な首都ブラチスラヴァ

 ブラチスラヴァと言われても、あまりピンと来ない人が多いだろう。ここはスロヴァキアの首都なのだが、周辺国のプラハ、ウィーン、ブダペストワルシャワなどの有名な首都と比べると、正直、地味だ。ぼくも行ってみるまでその存在を知らなかった(←失礼)。

  でも、知名度が低いだけで、ブラチスラヴァにも見どころはたくさんある。今回はこの都市についてご紹介する。

 

<ウィーンから日帰りもOK>

 以前も書いたが、ぼくはチェコのブルノからブラチスラヴァに行くつもりが、列車を乗り間違えてウィーンに行ってしまった。でも、そこからブラチスラヴァまでは列車で2時間くらいしか離れていないので、大きなミスにはならなかった。

中欧の地図を広げると分かる通り、ブラチスラヴァは上記に挙げた有名な都市たちのちょうど中間地点にある。だから、たとえばウィーンから列車で訪れて、数時間ほどこの街を観光した後、また列車に乗ってブダペストに行くということが1日のうちにできるのだ。実際に、ほかの都市から日帰りで訪れる観光客もけっこう多いとのことなので、スケジュールに余裕がある人はぜひ足を伸ばして訪れてみてほしい。

 

<街中のアート作品>

 ブラチスラヴァの街中には意外にも(←失礼)アート作品が多く見られる。特に旧市街にあるフラヴネー広場の辺りには、なかなか奇抜なオブジェが多い。写真にあるようなマンホールに埋め込まれたおじさんの銅像や、かわいさとうす気味悪さが入り混じった人形など、独特な雰囲気の漂う街並みは見ているだけで楽しい。

 

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 フラヴネー広場

 

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 マンホールの中に住むおじさん。写真には写ってないが、この銅像のすぐそばに銅像のフリをしたストリートパフォーマーがいて紛らわしかった。

 

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 仲睦ましいカップル

 

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 謎のクマのオブジェ

 

 フラヴネー広場から少し離れた場所にも、変わった建造物がいくつもある。たとえば、このピラミッドをひっくりかえした形の建物。スロヴァキア放送のラジオ局らしいが、中がどのような構造になっているのか気になるところだ。

 

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 スロヴァキア放送の建物 

 

  また、ファサードというデザインが施された国立ギャラリーも洗練されている。この建物は18世紀の宮殿と共産時代の兵舎を連結させているらしく、中にはスロヴァキア最大のゴシック美術のコレクションが収容されているとのことだ。

 

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 国立ギャラリー

 

<古きよきブラチスラヴァ城>

こうした現代アートがいたるところにあるブラチスラヴァは、まるでそれによって知名度で勝る周辺国の都市と対抗しているかのようだ。とは言え、この街が歴史的な面でほかの街よりも劣っているわけではない。

 この街の歴史を語る上で、ブラチスラヴァ城は欠かせない。この城はハンガリー王国の統治下であった12世紀ごろに建てられ、16世紀には遷都されたことで王国のシンボルになった。さらに、18世紀にはかのマリア・テレジアの居城となり、ハプスブルク家の栄光の物語の舞台にもなったのである。その後、1811年に火災が起きてからは長きにわたって荒廃することになるが、第2次世界大戦後に復旧され、いまもブラチスラヴァ市民の心のよりどころとなっている。

また、ブラチスラヴァ城の外観は独特で、よく「ひっくり返したテーブル」と称される(ラジオ局といい、ここの人たちはひっくり返すのが好きなのだろうか)。現在の場内は歴史博物館として一般公開されており、塔からはブラチスラヴァの街並みやドナウ川を見渡すことができる。

 だが、ぼくがブラチスラヴァ城を訪れた日はあいにくの豪雨だった。城へはバスやタクシーでも行けるが、けちって徒歩で登ったのが間違いだった。細い坂道は雨で何度も滑りかけたし、途中で折り畳み傘が折れてずぶ濡れになってしまった。それでもなんとか城にたどり着いたけれど、風がびゅうびゅうと吹き荒んでいてめちゃくちゃ寒く、とても観光を楽しめる状況ではなかった。なんとかこの写真だけは撮ったが、すぐに降りて宿に戻ったのだった。

 とは言え、晴れた日には素晴らしい景色が見られるはずなので、ブラチスラヴァに来たらぜひ訪れてほしいスポットだ。

 

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 ブラチスラヴァ城。一見そんなに雨が降ってないようだが、この時すでに傘は大破していた

 

<素朴な首都ブラチスラヴァ

 このように、ブラチスラヴァは古きよき文化と現代的な文化が共存した、非常にユニークな街である。ウィーンに来たついでにちょっと寄るだけでもいいけれど、この街を存分に楽しむためには、やはり1泊はしてみるべきだろう。

 あと、これは個人的な話になるけど、今回巡った中欧の国の中で人々が1番優しかったのが、このブラチスラヴァだ。うさんくさいアジア人のぼくに気軽に話しかけて道を教えてくれたお兄さんや、ドアの警報ベルを鳴らしても笑顔で対応してくれたペンションのスタッフなど、基本的にみんなフレンドリーだった(無邪気なちびっ子からチ○ノと呼ばれはしたが)。

一国の首都なだけど都会特有の冷たさがあまりなく、どこかあか抜けず素朴な雰囲気が漂っているところもまた(←失礼、ではなく褒め言葉)、このブラチスラヴァの魅力の1つだと言えるだろう。

 

 

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 個人的にツボったモニュメント。誰から知らない。

 

 

ブダペスト、独断と偏見のおすすめベスト3

<とは言え、ブダペストは『ドナウの真珠』>

前回ブダペストの悪口のようなことを書いてしまったけど、この街が『ドナウの真珠』と呼ばれるほど、ヨーロッパ随一の美しさを誇るのは確かだ。長い歴史を持ち、街並みは都会的で洗練されている。たとえば、ウィーンやプラハは様々な色が入り混じったにぎやかなイメージだけど、ブダペストは銀色に輝くクールな印象を醸し出している。「きれい」と「美しい」の違いともでも言おうか、とにかく、ブダペストは独特の魅力にあふれた街なのである。

 と、抽象的な感想を書いても言い訳がましいだけなので、今回は個人的に気に入ったブダペストのおすすめスポットを3つ紹介する。

 

<おすすめ① ヴァーロシュリゲットでのんびり>

 ブダペストのメインストリートであるアンドラーシ通りを歩くと、ヴァーロシュリゲットにたどり着く。ここは市民公園で、総面積122ヘクタールほどの園内には、美術館や動物園、さらには温泉まである。あいにく、ぼくが行ったときは天気があまり良くなかったが、晴れた昼下がりに園内を散歩したり、昼寝をしたりしてのんびり過ごすのも楽しいだろう。

 

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 園内にあるヴォイダフニャッド城。城の中は農業博物館になっている。

 

ヴァーロシュリゲットの入り口正面には、英雄広場がある。ここは1896年にハンガリー建国1000年を記念して造られたもので、中央の記念塔には天使ガブリエルの銅像があり、その周囲にハンガリーの英雄14人の銅像が設けられている。写真を撮る観光客の間を、スケボーに乗った兄ちゃんたちがすいすいと通り抜けていく様子が、実にのどかだ。

 

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 英雄広場。

 

 また、英雄広場の左右には、ラファエロやエル・グレコ、モネなどの絵画を収めた西洋美術館と、国内外の現代アートを展示した現代美術館(ミルチャーノク)がある。さすがにウィーンの美術史美術館なんかに比べると規模は落ちるけれど、それでも十分見応えのある作品ばかりだった。

 ヴァーロシュリゲットは観光地というよりは、ブダペスト市民の憩いの場だと言える。ここを訪れる際は、丸一日かけて園内をのんびりと見て回るといい。

 

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 西洋美術館。

 

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 現代美術館、ミルチャーノク。

 

<おすすめ② 中央市場のフォアグラ>

 お土産を買うなら、中央市場に行くといいだろう。市場と聞くと野外広場にでもあるのかと思いきや、ブダペストではホール状の建物の中にあり、何十もの店がひしめき、活気にあふれていた。

中央市場の1階は肉や野菜などの食料がメインで、雑貨や民族衣装などのお土産屋は2階にある。また、2階には飲食店もあり、ハンガリー名物のグラーシュ(パプリカのシチュー)が食べられるので、歩き疲れたらここで一息つくのもいい。また、地下にも一応店はあるけれど、特に変わったものものなく閑散としていたので、たいていの人は1、2階で十分だろう。

 

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中央市場。

 

ここの目玉はなんと言ってもフォアグラだ。ハンガリーはフランスに次ぐフォアグラの産地で、お肉屋ではグロテクスなまでに巨大な塊が置いてある。どの店も1キロあたり5000~6000フォリント、日本円だと2400~2900円という破格の値段だ(*2013年11月時点でのレート)。キッチン付きの宿に泊まったなら、自分で調理して腹いっぱい食べることができるだろう。

けれど、検疫の関係で生のままでは日本に持って帰ることはできないので、その場合は缶詰を買ってみよう。100グラムあたり3000フォリント前後、日本円で1500円前後と一気に値段が高くなるが、それでも日本で食べるよりは安いので、お土産としてはうってつけだろう。ただし、お土産物屋によっては、缶詰の賞味期限が切れている場合があるので(ある店で、賞味期限が2006年のものを買わされそうになった……)、念入りに確認しておいた方がいい。

 

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フォアグラの缶詰の山。これだけで10年分くらいのカロリーが取れそう。

 

フォアグラは高くて手が出せないという人は、パプリカパウダーがおすすめだ。写真にあるかわいらしい袋に入ったものが1000フォリント、約200円となかなかの値打ち価格。これさえあれば日本でもグラーシュを作ることができるので、料理好きな相手や、自分用に買って帰るのもいいだろう。

 

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 パプリカ。袋は再利用できそう。

 

<おすすめ③ くさり橋のライトアップ>

 そして、ブダペストの1番の見どころは、セーチェニー橋、通称「くさり橋」だろう。この橋が1849年に建てられたことで、川を挟んで別れていたブダとペストの2つの地区が1つに合わさり、現在のブダペストの街が誕生した。その後、第2次世界大戦のときに一部破壊されたりもしたが、現在までブダペストの街を象徴する存在として、人々の間で親しまれている。

 ヨーロッパでも特に美しいとされるこの橋は、荘厳なライオンの彫像や、アイバーチューンと呼ばれる独特な構造が目を引くが、なんと言ってもライトアップが素晴らしい。宵闇の中に煌々と輝き、ドナウ川にはその明かりが絹のように反射している。ブダ城の上から眺めるのも格別だ。同じくライトアップされた国会議事堂や、聖イシュトヴァーン大聖堂などの街並みと調和する夜景は、息をのむほどの美しさだ。恋人や伴侶とともにこれを眺めたら、一生の思い出になることだろう。もちろん、1人で眺めても美しいのは変わりない(独り身のぼくが言うのだから間違いない)。

ただ、夜のブダ城は真っ暗で人影もほとんどなく、少し危険かもしれない。秋から冬にかけては6時くらいにはもう暗くなっているので、ライトアップを見るなら、なるべく早い、観光客がまだいる時間に来るのがいいだろう。

 

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 くさり橋。

 

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 ブダ城からのくさり橋。奥で光っている建物は聖イシュトヴァーン大聖堂。

 

<見どころは語りつくせない>

この文章を書いている途中で思い出したが、ブダペスト西駅(国際列車の多くは東駅に発着するので要注意)には、世界一美しいと評判のマクドナルドがある。でも、実際に行ってみたら「……そうか?」って感じだったので、詳しい紹介はしないでおく。興味がある人は、ぜひ1度見に行ってみてほしい。

ブダペストにはこれら以外にも、ブダ城の迷路とか子供鉄道といった少し変わったものまで、本当に色んな観光スポットがある。ぼく自身はちょっとしたトラブルに巻き込まれてしまったけど、大半の人はこの街の魅力に満足するはずだ。物価もウィーンやプラハに比べると安いので、それらの街から少し足を伸ばしてブダペストに訪れてみてはどうだろうか。 

 

 

ブダペストでの災難

<非日常のいかがわしさ>

 中欧を訪れる半年ほど前、ぼくは東南アジアを2ヶ月ほど1人旅していた。それがはじめての海外旅行だったこともあり、毎日が刺激の連続だった。街を歩けばトゥクトゥク(バイクタクシーみたいなもの)の運転手やホテルの客引きに嫌と言うほど声をかけられるし、気を抜けばぼったくられるので値段交渉も一筋縄ではいかない。それに、しばしば危険な目にも遭った。アジアのうっとうしいほどの熱気はきつかったけど、だからこそ、1人旅特有の寂しさを紛らわしてもくれたのだった。

 初冬の中欧はそれと比べると、孤独だった。客引きからはほとんど声をかけられないし、インフラが整っているので、余計な会話をしなくても移動も買い物もできる。天気も曇り空ばかりですぐ暗くなり、人々はみな寒さでうつむきながら歩いている。沢木耕太郎の『深夜特急』に、ヨーロッパの冬は特別な意味で寒いという趣旨の一文が書かれていたが、まさにそうだと痛感した。肌寒い中欧には、東南アジアにはあった「非日常のいかがわしさ」とも呼べる熱気が、どこにもなかったのだ。

 だが、ある都市だけは、そのいかがわしさが漂っていた。ハンガリーの首都ブダペストだ。そして、それはつまり、ぼくがこの街で痛い目に合わされたことをも意味するのだった。

 

<駅の闇両替屋>

 スロバキアの首都ブラチスラヴァから列車で3時間ほどで、ブダペスト東駅に着いた。ホームに降りると、妙な緊張感に襲われた。それまでの国の駅と比べて少し汚く、どこか怪しげな雰囲気に包まれている。この街はやばいかもしれない。本能的にそう感じたが、まぁ大丈夫だろう、という楽観的な考えが背中を押してくれた。

ひとまず、手持ちのユーロをハンガリーの通貨であるフォリントに両替することにした。駅の両替屋のレートが悪いのは万国共通なので、少額に留めるつもりだった。店の前のレート表を見ると、1ユーロ232フォリントとある。まぁそんなものなのかと、5ユーロほど両替しようとしたら、突然、店の前で見知らぬおっさんに英語で話しかけられた。

「やぁ、おれとチェンジしないかい?」

 闇両替屋だ。東南アジアではよくからまれたが、中欧に入ってからはこれがはじめてだった。おっさんはニタニタと笑いながら、しくこくぼくに話しかけてくる。

「この店のレートは最悪だ。おれとチェンジしようぜ。お得だからさ」

 面倒臭い相手だったが、内心ぼくはうれしくもあった。こういう胡散臭い人に話しかけられるのはひさしぶりで、旅をしているんだという実感がわき上がってきたのだ。せっかくなので、ぼくはこのおっさんと両替することにした。

「ユーロを両替したい」

「そうか、じゃあ250でどうだ。この店は230だから、だいぶいいだろう?」

「いや、280だ」

 少しふっかけ過ぎたかなと思いつつ、そこから値段交渉がはじまった。10分ほどああだこうだと話し合い、270でないと両替しない、という状況までたどり着いた。

「分かった、分かった。で、お前はいったいなんユーロチェンジしたいんだ?」

 おっさんがうんざりした様子でそう言った。ぼくも疲れてなんだかどうでもよくなってきたので、いっそハンガリーで使う分のユーロをここで全部両替しようと思った。それが、運の尽きだった。

「70」

 そう告げると、おっさんの目の色が変わった。OK,OKと言いながら、急いで電卓でフォリントの金額を叩き出し、その分を自分の財布から取り出した。あまりの豹変ぶりになにか裏があるのではないかと不安になったが、おっさんはぼくにつけ入るすきを与えず、金を渡すとそそくさとどこかへ消えてしまった。嫌な予感がした。

 その予感は的中した。駅から出て、ブダペストの街をぶらぶらと歩いていると、両替所があった。なんとはなしにのぞいてみると、なんと、その店のレート表には1ユーロ298フォリントと表示されていたのだ。

そのとき、ぼくは自分のスマホにレートが確認できるアプリを入れていたことを思い出した。それを使って計算してみると、確かに、1ユーロはだいたい300フォリントくらいの値だった。やられた。まんまとぼったくられたのだ。

 駅の両替所と闇両替屋はグルだったのか? 本当のところは分からない。でも、こんなトラブルが起こることは予想できたはずだ。中欧に入ってから危険な目に合わず、警戒心が薄れていたのだろう。本来なら、おっさんに話しかけられたときにスマホのアプリをつきつけて「この額じゃないと両替しない」と言ってやらなければならなかったのだ……。

胸糞悪い事件だったが、取り返しはつかない。ここが海外であることを再認識するための授業料として、あきらめるしかなかった。

 だが、授業料はこれだけではすまされなかった。

 

<24時間乗り放題チケット>

 どこに行っても、ぼくの移動方法はたいてい徒歩だった。街並みをじっくり見るためでもあるが、交通費がもったいないというのが1番の理由だった。

 ブダペストにいる間も、最初のうちは徒歩で移動していた。でも、泊まっていたホテルが市街地からだいぶ離れていたこともあり、滞在最終日の前日からは24時間チケットを利用することにした。これを使えば、期限内なら地下鉄やバスが乗り放題になるので、かなりお得だと言えるだろう。交通機関を自由に利用できたおかげで、その日はブダペストを隅から隅まで見て回れた。最終日も、バスターミナルに向かう時刻をちょうど24時間後に合わせたので、最後の最後までチケットを有効活用することができた。……はずだったのだが。

 

ハンガリーの交通機関>

 トラブルについて語る前に、ここで中欧の交通機関について書いておこう。

中欧だけでなく西欧でもそうかもしれないが、たとえば地下鉄には、日本にあるような自動改札機はない。代わりに小さな機械が置いてあり、そこにチケットを刺し込む。すると、日付と時間が刻印されるので、それをホームや車内にいる検査官に見せるという仕組みになっている。また、チケットは基本的にバスや路上電車と共通で、何分以内なら乗り放題というものがほとんどなので、乗り継ぎがかなりスムーズに行われるのも特徴だ。

 ただ、この仕組みには穴もある。チケットを点検するはずの検査官が、たまにしか現れないのだ。ぼくの場合は、市内交通の車内で1度も検査官に遭遇しなかった。もちろん、抜き打ちチェックのときに正規のチケットを持っていなかったら罰金を払わされるのだが、キセル行為をやろうと思えばかなりの確率で成功するだろう。実際に、現地の人がチケットを買うところはほとんど見なかったので(みんな定期券かなにかを持っているのかもしれないが)、そのへんは日本と比べてけっこう大らかなのかもしれない。

だが、ブダペストは他の中欧の街と比べたら、厳重だった。駅の改札口には検査官が待機していて、彼らにチケットを提示する必要があるのだ。と言っても、検査官のおじさんのほとんどは、ちらっと見ただけですぐに通してくれる。人通りが少ないときはだいたい同僚とだべっているし、逆に人が多いときはチェックしないまま通されることもあった。

そうやって、24時間チケットで何度も乗り降りしていると、いちいち見せるのが面倒くさくなってくる。それに、バスや路上電車で1度も検査官のチェックがなかったので、チケットを買ったのが馬鹿らしく思えてしまった。いっそ、次はキセル行為をしてやろうか。そんなことを考えてしまうくらい気が緩み出したころに、トラブルは必ず降りかかって来るのだった。

 

<検査官のおばちゃんとのバトル>

 事件はブダペスト最終日に起こった。

ウィーン行きの長距離バスに乗るため、バスターミナルのある駅まで地下鉄で向かっていたら、間違えてひとつ手前の駅で降りてしまった。いつもならこれくらいのミスは笑ってすませられるけれど、このときは違った。先にも書いたが、ぼくは24時間チケットを期限ギリギリまで利用するつもりだったので、この時点で買ってから23時間50分ほど経っていたのだ。次の電車に乗って駅に着くころには、期限を越えてしまうかもしれない。その場合は、罰金を払わされてしまう。

なのに、次の電車はなかなかやってこない。ぼくはかなり焦っていた。でも、よくよく思い返してみたら、これまで検査官は乗車のときにしかチケットをチェックしていなかった。だから、たとえ24時間をオーバーしていたとしても、それがばれるはずがないのだ! 

そのことに気づいて、ぼくはほっと胸をなで下ろした。何分か後、ようやく列車も到着した。ぼくはもうチケットのことは忘れて、次に向かうウィーンのことだけを考えながら、ゆうゆうと列車に乗った。

 だが、世の中はそんなに甘くなかった。本来なら乗車客をチェックする検査官が2人だけいるのだが、その駅の改札にはもう2人、おばちゃんの検査官がいた。どうやら彼女たちは、降車客のチケットをチェックしているようだった。

 ぼくは戦々恐々としながら、地上への階段を上がった。おばちゃんたちが他の乗客の相手をしている間に通り過ぎようとしたが、やはりそうはいかなかった。

「エックスキューズミー」

 おばちゃんはぼくを呼び止め、チケットを出すように言った。ぼくはしぶしぶ、彼女にそれを見せた。眼鏡をくいっと上げてのぞきこむと、おばちゃんは顔をしかめた。そして、ぼくに自分の腕時計を見せた。9時37分。期限の2分オーバーだった。

 そこから、ぼくとおばちゃんの片言の英語を使ったバトルがはじまった。

「2分くらい大目に見てよ」

 とぼくが言えば、

「ノー!」

 とおばちゃんは頑なにはねつける。

「乗ったときの検査官からはOKもらったんだから、いいだろう!?」

「あんたの乗ったところからここへは列車を乗り換えるでしょう? 本来ならその分の料金を払わなきゃダメなのよ」

「おれが乗ったときは期限内だったよ」

「降りたときの時間含めての24時間」

「ぐぬぬ……ところで、おばちゃんきれいだね。だから許して」

「あらそう? うふふ。ノー!!!」

 そんなこんなでしばらく揉めていたけど、埒が明かないし、バスの出発時間も迫っていた。仕方がなく、ぼくは罰金を払うことにした。いくらだとおばちゃんに尋ねると、なんと8000フォリントらしい。それは、ぼくの1日の生活費に値した。

 当然、手持ちのフォリントで払えるわけがなかった。あるだけ全部出して足りないと分かると、おばちゃんはATMに行けと命令口調で言ってきた。その言い方が癪だったが、ここはじっと抑えて、不足分はユーロで払った。

 徴収がすむと、おばちゃんは請求書のようなものを書きはじめ、写しをぼくに渡した。そして、「バーイ」とまるでぼくを追い払うように手を振った。この段階でかなり怒り心頭だったが、さらにむかついたのが、そこに違反時刻が「9時50分」と書かれていたことだ。

いや、ぼくが電車を降りたのは9時37分という期限ギリギリで、駅を降り間違えたことによる不運な結果なわけで、15分オーバーという確信犯的とも思われないような時間になったのは、おばちゃんがねちねち言ってきたせいじゃないか、これはあれか、融通が利かない旧社会主義の国の官僚体質なのか!……と、つまらないことで憤ってしまうほど、このときのぼくはかなりまいっていた。いまになって振り返ったら、9:1ぐらいでぼくが悪かった。というか、完全にぼくの不注意なのだった。

 

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 24時間乗り放題チケット

 

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 おばちゃんに渡された請求書。よい子は余裕を持って行動しましょう。

 

<旅先の好き嫌い>

 旅先で訪れた国や街にまた訪れたいと思うかは、そこで出会った人次第だ。どんなにきれいな景色やおいしい食べ物と巡り合えたとしても、嫌な人やトラブルと遭遇してしまうと、すべて台無しになってしまう。

 もちろん、それだけでその国や街を否定するのは、あまりにも極端だ。それが自分の責任であるのなら、なおさら身勝手だろう。でも、1度味わってしまった嫌な思いは、そう簡単に忘れられるものではない。そんなこともあったと笑ってすませられるようになっても、また行きたいと思えるのは、よっぽどその場所に惹きつけられたか、ドMな人ぐらいだろう。

ハンガリーブダペストはたしかに魅力的な街だった。でも、しばらくはいいかな、とぼく自身は思っている。

 

ウィーンで本場のオペラを4ユーロで観てきた(後編)

<前回のあらすじ>

 ウィーンの本場のオペラを4ユーロの立ち見席で観るため、上演の3時間前から並びに行った筆者。少し変わった日本人のおじさんに助けられながら、なんとか最前列の特等席をゲットしたのだった…。

 

<ついに客席へ>

 そして、ついに客席に入った。扉をくぐると、そこには予想以上にきらびやかな光景が広がっていた。舞台は思っていたよりも小さかったが(奥の奥の席なのでそう感じただけかもしれない)、天井から吊り下げられた巨大なシャンデリア、そして金色に光輝くボックス席は、それだけで見るものを陶酔させる。まさに豪華絢爛だった。

ぼくが買った平土間の奥の奥「Parterre」は、8人くらい入れる列が左右に10列ほど設けられていた。係員に誘導されて、左の階段から上がった人は左の列に、右の階段から上がった人は右の列にと、それぞれ左右に分かれて並ばされる。ぼくとおじさんは、みごと右側の最前列に陣取ることができた。

ところで、さっきまで後ろにいた白人の少年が、なぜか左側の最前列の席についていた。実際のところは不明だが、係員が気を利かせて1番見やすい場所を取ってくれたのかもしれない。

 また、下記の写真を見ていただけると分かるが、立ち見の最前列と座席の最後列はほとんど離れていない。調べてみると、劇場で1番値の張る席はこの最後列のあたりだそうだ。つまり、実質たった4ユーロで、最高の位置からオペラを観ることができるのだ。これほどお得で豪華な立ち見はほかにはないだろう。

 席は確保したが、まだやるべきことがあった。係員がなにか説明をしてくれているが、よく分らないのでおじさんに尋ねてみた。すると、おじさんは待っていましたとばかりに、さっきのマフラーを取り出した。

「これをね、目印として手すりにかけるのがルールなんだよ。そうしないと、他の人に取られるかもしれないからね。せっかくだから、きみの分も一緒につけておこう」

 おじさんは自分とぼくの席の前の手すりにマフラーを巻きつけた。周りを見渡すと、他の人々もスカーフやらなにやらで目印をつけていた。それは、いままで見てきた中で、最もオシャレな場所取りだった。

「これでひと段落。上演まで自由に時間を潰しなさい。それじゃあ、また後で!」

 そう言って、おじさんは劇場の奥へと消えて行った。ぼくも上着をクロークに預けるため、客席を離れることにした。そのついでに、少し劇場内を探索してみよう。

 

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 平土間の立ち見席。手すりにマフラーなどをかけて場所取りをする。 

 

<上演前の探索>

 上着は1階にあるクロークに預けた。ここは座席客と立ち見客の両方が利用できるが、だからと言って応対に差があるわけではなかった。ぼくの上着を預かったのはこの劇場に何十年も仕えているであろう老係員だったが、変に愛嬌を振りまくでもなく、淡々と自分の仕事をこなしていた。

チケットを提示すれば、劇場の隅から隅まで見て回ることができた。舞台の間近やボックス席にも行けたし、常設のバーでワインだって飲めた(立ち見のチケットよりも高いが)。よほどのことがない限り、写真も自由に撮れた。ただ、さすがに周りには正装した人が大半なので、はしゃぎ過ぎると白い目で見られてしまう。その辺はわきまえておいた方がいいだろう。

 注意すべきなのは、劇場の造りが思った以上に複雑であることだ。開演時間が近づいてきたので立ち見席に戻ろうとしたが、どこにあったか分からなくなって、しばらく迷ってしまった。係員に聞けば大丈夫だろうが、席から離れる際はちゃんとどの道筋を通ってきたかを覚えておくべきだろう。

 

<そして開演>

 迷いはしたが、開演10分前には自分の席に戻ることができた。おじさんはまだ戻っていなかったが、客席は続々と埋まり、演奏者たちも簡単に音合わせをしていた。

ここまでまったく書いていなかったけれど、この日の演目はヴェルディの『仮面舞踏会』だった。内容をかなり簡潔に言うと、主人公はアメリカのボストンで総督をしているリカルド。彼には秘書のレナートがいたが、実はリカルドは密かにレナートの妻であるアメリアと不倫をしていた。上司と妻の関係を知ったレナートは、リカルドをよく思わない反逆者と一緒に、彼を暗殺しようとするのだった…。

という、よくあると言えばよくある三角関係のもつれだ(詳しくはwikipediaかなにかで参照していただきたい)。オペラは事前にストーリーを頭に入れておかないと置いてけぼりになると聞いていたので、上演までのわずかな時間を使って、一応内容をおさらいしておいた。

ちなみに、各席には字幕が流れる機械が設けられており、それを見ながらストーリーを追うことができる。ただ、使われている言語はドイツ語と英語だけだし、舞台と字幕を交互に見るのはかなり大変なので、使っている人はほとんどいなかった。オペラにとって、字幕なんて野暮なことなのかもしれない。

 5分前になって、ようやくおじさんが帰ってきた。

「もうすぐだねぇ、楽しみだね。この作品を観るの、実ははじめてだから、緊張するねぇ」

子供のように胸を躍らせるおじさんは、若干面倒臭いものの、それくらい純粋に音楽が好きなのだと思うと、微笑ましくもあった。大人しくしていられず、隣にいたコロンビア人の夫婦とおしゃべりをし出した彼を眺めていると、いったいどのような人生を送ってきたのか興味がわいてきた。旅をしていて1番楽しいのは、きれいな景色や美味しい食べ物とかではなく、彼のようなおもしろい人と出会えることに尽きるのだ。

でも、それを探る間もなく、会場の照明が徐々に落とされていった。いまのいままでざわめいていた客席が、とたんに静かになる。おじさんも口を閉ざし、きらきらとした眼差しを舞台に注ぐ。何千もの耳は、『仮面舞踏会』の音色だけを待ちかまえている。

 

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 国立歌劇場のボックス席

 

<胎児のような心地>

 上演に先だって、注意を呼びかけるアナウンスが流された。ドイツ語、英語に続いて聞こえてきたのは、なんと日本語だった。おじさんが教えてくれたところによると、現在の国立歌劇場のメインスポンサーはトヨタ自動車であるので(そう言えば、劇場のいたるところに「LEXUS」のロゴマークがあった)、それが関係しているのかもしれない。

 アナウンスが終わると、オーケストラの前奏曲がはじまった。ついに開演だ。幕が上がると、舞台では大勢の演者が合唱をしていて、そこに主人公リカルド役の俳優がさっそうと登場する。さすがは主演を張るだけあって、彼の声量や重厚感は群を抜いていた。それに、ヒロイン・アメリア役の女優の声も素晴らしかった。人間の声はこれほどまで遠く透き通るのかと感嘆するほどで、2人の男性の板挟みになる女性の苦悩を、みごとに表現していた。

ここから愛憎渦巻くどろどろの物語が展開されるわけだが…詳しくは書かないでおく。さっき字幕が野暮なことのように思えると書いたが、話の筋を書き連ねたところで、オペラの醍醐味は表現しきれない。オペラはあくまで「音楽」なのだから。

ストーリーよりもなにより、会場の隅から隅まで反響する俳優の声や楽器の音色が圧巻だった。1階の奥の席でさえ、耳を通り越し心臓を震わすような感覚を覚えるのだから、舞台近くや天井桟敷の席はそれ以上の「揺れ」を感じたことだろう。まったく音楽の教養がないぼくでも、この空間に満ちた音の豊饒さに酔いしれることができた。母親のお腹の中にいる胎児はこんな心地なのかもしれないと思いながら、ぼくは舞台だけでなく、四方八方に飛び交う音を、むさぼるように堪能した。

 

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 閉幕後の舞台挨拶(上演終了直後なので写真OKだった…はず) 

 

<閉幕後の音のたわみ>

 休憩をはさんで3時間の長い舞台は、あっという間にクライマックスを迎えていた。

タイトルと同じ華やかな仮面舞踏会の場で起こる悲劇的なラスト。最後の絶唱がとどろき、幕が下りる。その瞬間、客席全体から祝砲のような拍手が鳴り響いた。拍手は途絶えることなく、出演者が挨拶のために姿を現すたびに大きくなり、「ブラボー」というかけ声もいたるところから聞こえてくる。そういった閉幕の後の音も含めて、ぼくの耳は普段絶対口にできない豪華な料理を食べたように満足していて、そして、少しもたれていた。

「それじゃあ、またどこかで。気をつけて旅を続けてね」

 おじさんはぼくにそう話しかけると、すぐに劇場を後にした。こういうあっさりとした別れは、変な気を使わなくて楽な一方、やはり少しさみしくもある。彼のノートにぼくの名前や住所は記載されていないが、ぼくの方は彼を忘れることはないだろう。それくらい、彼は変な人(いい意味で)だった。

ふと気になって、反対側の列にいる少年に目を向けた。彼はまだその場にいたが、ほかの観客のように拍手をしたりせず、ただじっと舞台を見つめていた。彼の胸中に渦巻くものがなんなのかは分からない。でもいつか、立ち見ではなく、すぐ目の前の1番高価な席でぼくがオペラを観る機会があったなら、そのときは成長した彼が演奏か出演していてほしいと、なんとなく思った。

 預けたクロークを受け取り、ぼくも劇場を後にした。午後10時を回り、辺りはすっかり暗く、寒くなっていた。人の声や車や行き交う街の音が聞こえるが、なんだかどれも耳の中でたわんでいるように感じた。

地下鉄に乗ってもそのたわみは続いたが、アパートホテルに戻ってシャワーを浴び、いつものようにテレビでCNNのニュースを見ながら、冷凍のグラタンをチンして食べていると、それはしだいに治まっていった。

 オペラは、あまりにも華麗かつ荘厳で、あまりにも非日常だった。たわみは、その非日常な音に耳が少しマヒしたことによるのだろう。

だが、よく考えたら、旅そのものが非日常であるはずだった。それがしだいに治まっていったのは、ぼくの中でこの旅がマンネリ化していることを意味しているのかもしれない。どこに行っても新鮮味のない、日本と同じようなありふれた生活を、いつのまにか送っているのではないか、と。

日付をまたぐころ、ぼくは眠りに着いた。いつもはテレビをつけっぱなしにしたままにしておくが、今夜だけは消しておいた。

目を閉じ、静寂の中に身を任せる。すると、さっきのオペラがまた聴こえ出した。心地よい揺れの中に身体を浸す。眠りに落ちるまでのほんのひととき、ぼくはまた、胎児に戻ることができた。

 

 

 

ウィーンで本場のオペラを4ユーロで観てきた(前編)

<ウィーンは豊かな街>

 前回「アウシュヴィッツ博物館で考えたこと」の舞台であるポーランドに行く前に、ぼくはオーストリアの首都ウィーンを訪れていた。今回はそこでの一夜について書こうと思う。

そもそも、今回の旅行は3週間でチェコやポーランドなどの中欧を気ままに巡るというものだった。まずはプラハに入り、クトナーホラ、ブルノとチェコ国内を横断して、その後はスロバキアブラチスラヴァハンガリーブダペスト、そしてウィーンと、列車とバスを使って移動してきた。ウィーンに着いたのは日本を発ってから十日後で、ちょうど旅の折り返し地点ということになる。ようやく異国にも慣れてきたのにもう半分が過ぎたのかと、少し感傷的になっている時期でもあった。

実はウィーンには数日前に1度訪れていた。ブルノからの列車の乗り換えを間違え、ブラチスラヴァに行くはずがこちらに来てしまったのだ。こう書くととんでもないことのように思えるが、中欧の国はどこも面積が狭く交通も発達しているので、多少のミスは取り返しがつく。予定を変更してそのまま滞在してもよかったが、すでにホテルの予約をしていたから、数時間だけ市内を観光してまた列車に乗ってブラチスラヴァに向かった。2時間後には着いた。距離的には80キロほど、大阪から和歌山に行くようなものだった。

 再訪したウィーンで印象に残ったのは、他の中欧の都市と比べて物価が高いのと、移民の数が段違いだということだ。街中では、観光ではなく生活を営んでいるムスリムや黒人の人々をよく目にした。ぼくの泊まったアパートホテルのオーナーも、イラン人の男性だった。調べれば、オーストリアは国民の約10%が移民であるらしい。何線も交わる地下鉄を色んな肌の色の人々が利用する様子は、この街の豊かさを象徴しているかのようだった。

 

<オペラを4ユーロ(約500円)で観てきた>

 美術史博物館でブリューゲルやラファエロの絵を観たり、シェーンブルン宮殿の敷地内をぶらぶらと歩いたりした後、せっかく音楽の都に来たのだから、国立歌劇場でオペラを観たくなった。でも、いまの自分は金もなく服も汚く、どう見てもお高いイメージのオペラとは場違いだった。これは劇場に行っても門前払いをくらうだろうなと一度はあきらめたが、調べてみると、そんなぼくでもオペラを楽しむ裏ワザがあるようだった。

その方法はずばり、立ち見だ。

国立歌劇場には、指定席の後方に立ち見席が設けられている。平土間なら4ユーロ、天井桟敷ならわずか3ユーロという破格の値段だ。服もサンダルや短パンでなければ(この寒い時期にそんな格好の人はいないだろうが)比較的カジュアルなもので大丈夫らしく、一般庶民でも金持ちと同じ本格的なオペラが観られるとのことだった。

このチャンスを逃すまい。ぼくはいったんホテルに戻って、一応青のシャツと黒の綿パンツに着替えた。ネットの情報によれば、立ち見席のチケットは上演の1時間半くらい前から販売されるそうだが、実際にはそこからさらに1時間は並ばないといい席は取れないらしい。その日の上演時間は夜の7時だから、逆算したら夕方の4時半。幸運なことに、金はないが時間にだけは余裕がある。ぼくは1番いい最前席を獲得すべく、4時に劇場に赴いた。

 

<立ち見席を巡る競争>

劇場の外まで伸びる行列を予想していたが、意外にもぼくの前にはまだ5、6人しかいなかった。その日はかなり寒い日だったので、みんな足取りが重かったのかもしれない。意気込んで損したなと思っていたら、すぐにぞくぞくと人が集まってきたので、やはりこのくらいの時間に並びに来るのがベストなのかもしれない。

 列にはアジア人の姿もちらほらあった。僕のすぐ後ろに並んでいた人も、スーツを着た日本人のおじさんだった。そうだと分かるのは、寒いなぁ寒いなぁ、と日本語でひとり言をしゃべっていたからだ。そして、彼はこの劇場の常連でもあるようだ。チケットの販売開始まで多くの人は床に座って待っているが、彼はアウトドア用のイスを用意して、サンドウィッチとコーラでのんびり食事を楽しんでいた。これはただ者じゃない、ぼくはとっさにそう思った。

 待ち時間はかなりヒマだったので、自然とそのおじさんと世間話をするようになった。話を聞くに、彼は広島でタクシー運転手をしていて、休暇を利用してはよくヨーロッパにオペラやクラシックの公演を観に来ているらしい。なかなか変わった人で、ノートに旅先で友達になった人についての覚書を日記代わりにメモしていて、それを楽しそうにぼくに見せてくれた。

「彼はねぇ、パリで出会った青年で、舞台芸術を学んでいるんだよね。いいやつだったよ」

 そう言って見せてくれたページには、日本人の名前とその人の住所が書かれていた。これは初対面の相手に見せないほうがいいのでは、と心の中で呆れてしまったが、悪い人ではなさそうだった。

ぼくはその道のプロであろうおじさんに、立ち見のコツを教えてもらうことにした。おじさん曰く、いま並んでいる列とは別に、この後劇場の奥でもう1度並ぶことになるらしい。そのときに席が確定するので、チケットを買ってからが本当の勝負であるそうだ。

「チケットを買ったらね、たいていの人は左の通路を走るんだよ。でもね、ここだけの話、平土間を狙うなら、あえて右に行きなさい。そしたら、最前列が取れるから」

どうしてか、と僕は尋ねたけれど、おじさんは意味深な笑みを浮かべるだけで教えてくれなかった。このときはうさんくさい話だといぶかしんでいたけれど、この後、ぼくはおじさんの必勝法は正しかったと思い知らさた。

午後五時半、ようやくチケットが発売された。おじさんに教わった通り、ぼくは受付の男性に「Parterre(ドイツ語で1階を意味するらしい)」と言って4ユーロを渡した。係員から手渡されたチケットを持って奥に進むと、後ろに並んでいた人たちが、全力疾走でぼくを追い越して行った。音大生ぽいカップルや、アジア人の夫婦、それに腰の曲がったおばあちゃんまでもが、品がないほど必死に天下の国立歌劇場を駆け抜ける。

「ぼけっとしないで、ついて来なさい!!!」

おじさんに叱咤され、ぼくもおろおろしながら彼について走った。

ほそい通路を抜けると、正面階段に出た。すると、さっきおじさんが言った通り、ほとんどの人が左側の階段を上って行く。それをしり目に、おじさんとぼくは悠々と右側の階段を上る。それから細い通路をまた走り抜けると、客席の入り口にたどり着く。まだ、誰もいない。みごと、ぼくたちは列の先頭に並ぶことができたのだ。おじさんははあはあと息を乱しながら、満面の笑みで親指を立てた。

なぜ、みんな左へ向かったか。最後までおじさんは教えてくれなかったので、これはあくまで僕の推測になるけど、こんな理由があるのではないだろうか。

平土間用の入り口は、左右の2つに分かれている。でも、天井桟敷の入り口は左側にしかない。天井桟敷は舞台があまり見えないけれど、よく音が響くという利点がある。そのため、耳の肥えた玄人は先陣を切って左側の階段を駆け上がるのだ。そんな玄人の後ろを、どこに行けばいいのかよく分らない平土間の初心者が、とりあえずついて行ってしまう。そうやって芋づる式にみんな左側に行ってしまうので、そのすきをついて手薄になった右側に進めば、自然と前の方の席を取ることができる。そんな事情があるのではないだろうか。

 実際のところは分らない。でもなんにせよ、おじさんのおかげでいい席が取れたのは確かだった。

 

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立ち見席目当ての行列

 

<再び待たされる>

 最前列は確定したけれど、ここからまた少し待たされる。おじさんはその時間を利用して、荷物をクロ―クに預けに行った。本当は列を離れたらダメなんだろうけど、常連だから係員に無理を言えるのだろう。

 ぼくの後ろには、8歳くらいの白人の少年が1人で並んでいた。金髪で青い目の、絵に描いたような美少年だ。どうして1人でいるのか気になっていると、彼の母親であろう女性が現れて、2人でなにやら話をしはじめた。少年はつっけんどんな仕草を見せ、母親は心配そうな顔をしたものの、すぐに去って行った。

 きっと、この子はオペラ歌手か演奏者を目指していて、その勉強のために平土間の席に来たのだろう。少し不安そうな様子だが、自分の夢にひたむきなその姿は微笑ましく、どこか1人旅をしている自分と重ねてしまった。もっとも、ぼくにはたいそれた夢や目標などなかったのだが。

 しばらくすると、係員が入口の扉を開けた。だが、それはぼくら立ち見客のためではなく、座席の人々を迎えるためだった。

 そのときに現れた人々が見物だった。高そうな黒のドレスを着た美女らが、モデルのように端正な顔立ちの男性らにエスコートされ、洗練された身のこなしで中に入っていく。誰も彼も高貴な雰囲気を漂わせていて、まるで映画の1シーンを観ているかのようだ。立ち見で、しかもろくな格好をしていない自分が恥ずかしくなるほど、それはそれはきらびやかな光景だった。

「すごいねぇ。華やかだねぇ、きっとどこかの富豪の子供たちなんだろうねぇ」

 彼らの姿が見えなくなった後に、おじさんがひょうひょうと帰ってきた。あまりの落差にずっこけそうになったが、正直ほっとした、やっぱり自分には、こちら側がお似合いなのだろう。

 それからまたしばらく待たされた。さっきの一団を見たことでぼくの気持ちは高ぶり、まだかまだかと気が急いてきた。そんな中、コーラを飲んでくつろいでいたおじさんが、ふいになにかに気づいてポケットを探りだした。あれぇ、ないなぁ。どこに忘れたんだろう。どうかしたのかと尋ねてみるが、おじさんは動揺していて聞く耳を持たなかった。

「もしかしたら、預けた荷物の中に入れっぱなしなのかもしれない。ちょっと、これ持っていて!」

そう言って、おじさんはぼくにコーラを預け、係員に話をつけてまたクロークの方に走って行った。やれやれ、とおじさんの後姿を眺めていると、少年と目が合った。大変だね、と言いたそうに笑っていたので、ぼくも同じように苦笑いを返した。

 おじさんはすぐに息を切らして帰ってきた。彼の手には、なぜか紺色のマフラーが握られていた。

「よかった。やっぱり荷物の中に入れっぱなしになっていたよ」

「マフラーをどうするんですか? 劇場内は十分暖かいのに」

 ぼくがそう尋ねると、おじさんは意味深な笑みを浮かべた。

「席でね、必要になるんだよ。きみの分もこれで大丈夫だから。ふぅ、疲れた。あ、コーラどうもありがとう」

 オペラとマフラーになんの関係があるのだろう。疑問は募るが、ちょうどそのとき係員がぼくらの前の扉を開けた。ようやく入場できるのだ。マフラーの謎も、この後すぐ明らかになるだろう。ぼくは胸を高鳴らせながら、客席へ続く通路を歩いていった。

(長くなったので、後編へ続く)

  

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ウィーンの国立歌劇場の正面階段