豆鳥の巣立ち

旅と小説とその他もろもろ

ウィーンで本場のオペラを4ユーロで観てきた(前編)

<ウィーンは豊かな街>

 前回「アウシュヴィッツ博物館で考えたこと」の舞台であるポーランドに行く前に、ぼくはオーストリアの首都ウィーンを訪れていた。今回はそこでの一夜について書こうと思う。

そもそも、今回の旅行は3週間でチェコやポーランドなどの中欧を気ままに巡るというものだった。まずはプラハに入り、クトナーホラ、ブルノとチェコ国内を横断して、その後はスロバキアブラチスラヴァハンガリーブダペスト、そしてウィーンと、列車とバスを使って移動してきた。ウィーンに着いたのは日本を発ってから十日後で、ちょうど旅の折り返し地点ということになる。ようやく異国にも慣れてきたのにもう半分が過ぎたのかと、少し感傷的になっている時期でもあった。

実はウィーンには数日前に1度訪れていた。ブルノからの列車の乗り換えを間違え、ブラチスラヴァに行くはずがこちらに来てしまったのだ。こう書くととんでもないことのように思えるが、中欧の国はどこも面積が狭く交通も発達しているので、多少のミスは取り返しがつく。予定を変更してそのまま滞在してもよかったが、すでにホテルの予約をしていたから、数時間だけ市内を観光してまた列車に乗ってブラチスラヴァに向かった。2時間後には着いた。距離的には80キロほど、大阪から和歌山に行くようなものだった。

 再訪したウィーンで印象に残ったのは、他の中欧の都市と比べて物価が高いのと、移民の数が段違いだということだ。街中では、観光ではなく生活を営んでいるムスリムや黒人の人々をよく目にした。ぼくの泊まったアパートホテルのオーナーも、イラン人の男性だった。調べれば、オーストリアは国民の約10%が移民であるらしい。何線も交わる地下鉄を色んな肌の色の人々が利用する様子は、この街の豊かさを象徴しているかのようだった。

 

<オペラを4ユーロ(約500円)で観てきた>

 美術史博物館でブリューゲルやラファエロの絵を観たり、シェーンブルン宮殿の敷地内をぶらぶらと歩いたりした後、せっかく音楽の都に来たのだから、国立歌劇場でオペラを観たくなった。でも、いまの自分は金もなく服も汚く、どう見てもお高いイメージのオペラとは場違いだった。これは劇場に行っても門前払いをくらうだろうなと一度はあきらめたが、調べてみると、そんなぼくでもオペラを楽しむ裏ワザがあるようだった。

その方法はずばり、立ち見だ。

国立歌劇場には、指定席の後方に立ち見席が設けられている。平土間なら4ユーロ、天井桟敷ならわずか3ユーロという破格の値段だ。服もサンダルや短パンでなければ(この寒い時期にそんな格好の人はいないだろうが)比較的カジュアルなもので大丈夫らしく、一般庶民でも金持ちと同じ本格的なオペラが観られるとのことだった。

このチャンスを逃すまい。ぼくはいったんホテルに戻って、一応青のシャツと黒の綿パンツに着替えた。ネットの情報によれば、立ち見席のチケットは上演の1時間半くらい前から販売されるそうだが、実際にはそこからさらに1時間は並ばないといい席は取れないらしい。その日の上演時間は夜の7時だから、逆算したら夕方の4時半。幸運なことに、金はないが時間にだけは余裕がある。ぼくは1番いい最前席を獲得すべく、4時に劇場に赴いた。

 

<立ち見席を巡る競争>

劇場の外まで伸びる行列を予想していたが、意外にもぼくの前にはまだ5、6人しかいなかった。その日はかなり寒い日だったので、みんな足取りが重かったのかもしれない。意気込んで損したなと思っていたら、すぐにぞくぞくと人が集まってきたので、やはりこのくらいの時間に並びに来るのがベストなのかもしれない。

 列にはアジア人の姿もちらほらあった。僕のすぐ後ろに並んでいた人も、スーツを着た日本人のおじさんだった。そうだと分かるのは、寒いなぁ寒いなぁ、と日本語でひとり言をしゃべっていたからだ。そして、彼はこの劇場の常連でもあるようだ。チケットの販売開始まで多くの人は床に座って待っているが、彼はアウトドア用のイスを用意して、サンドウィッチとコーラでのんびり食事を楽しんでいた。これはただ者じゃない、ぼくはとっさにそう思った。

 待ち時間はかなりヒマだったので、自然とそのおじさんと世間話をするようになった。話を聞くに、彼は広島でタクシー運転手をしていて、休暇を利用してはよくヨーロッパにオペラやクラシックの公演を観に来ているらしい。なかなか変わった人で、ノートに旅先で友達になった人についての覚書を日記代わりにメモしていて、それを楽しそうにぼくに見せてくれた。

「彼はねぇ、パリで出会った青年で、舞台芸術を学んでいるんだよね。いいやつだったよ」

 そう言って見せてくれたページには、日本人の名前とその人の住所が書かれていた。これは初対面の相手に見せないほうがいいのでは、と心の中で呆れてしまったが、悪い人ではなさそうだった。

ぼくはその道のプロであろうおじさんに、立ち見のコツを教えてもらうことにした。おじさん曰く、いま並んでいる列とは別に、この後劇場の奥でもう1度並ぶことになるらしい。そのときに席が確定するので、チケットを買ってからが本当の勝負であるそうだ。

「チケットを買ったらね、たいていの人は左の通路を走るんだよ。でもね、ここだけの話、平土間を狙うなら、あえて右に行きなさい。そしたら、最前列が取れるから」

どうしてか、と僕は尋ねたけれど、おじさんは意味深な笑みを浮かべるだけで教えてくれなかった。このときはうさんくさい話だといぶかしんでいたけれど、この後、ぼくはおじさんの必勝法は正しかったと思い知らさた。

午後五時半、ようやくチケットが発売された。おじさんに教わった通り、ぼくは受付の男性に「Parterre(ドイツ語で1階を意味するらしい)」と言って4ユーロを渡した。係員から手渡されたチケットを持って奥に進むと、後ろに並んでいた人たちが、全力疾走でぼくを追い越して行った。音大生ぽいカップルや、アジア人の夫婦、それに腰の曲がったおばあちゃんまでもが、品がないほど必死に天下の国立歌劇場を駆け抜ける。

「ぼけっとしないで、ついて来なさい!!!」

おじさんに叱咤され、ぼくもおろおろしながら彼について走った。

ほそい通路を抜けると、正面階段に出た。すると、さっきおじさんが言った通り、ほとんどの人が左側の階段を上って行く。それをしり目に、おじさんとぼくは悠々と右側の階段を上る。それから細い通路をまた走り抜けると、客席の入り口にたどり着く。まだ、誰もいない。みごと、ぼくたちは列の先頭に並ぶことができたのだ。おじさんははあはあと息を乱しながら、満面の笑みで親指を立てた。

なぜ、みんな左へ向かったか。最後までおじさんは教えてくれなかったので、これはあくまで僕の推測になるけど、こんな理由があるのではないだろうか。

平土間用の入り口は、左右の2つに分かれている。でも、天井桟敷の入り口は左側にしかない。天井桟敷は舞台があまり見えないけれど、よく音が響くという利点がある。そのため、耳の肥えた玄人は先陣を切って左側の階段を駆け上がるのだ。そんな玄人の後ろを、どこに行けばいいのかよく分らない平土間の初心者が、とりあえずついて行ってしまう。そうやって芋づる式にみんな左側に行ってしまうので、そのすきをついて手薄になった右側に進めば、自然と前の方の席を取ることができる。そんな事情があるのではないだろうか。

 実際のところは分らない。でもなんにせよ、おじさんのおかげでいい席が取れたのは確かだった。

 

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立ち見席目当ての行列

 

<再び待たされる>

 最前列は確定したけれど、ここからまた少し待たされる。おじさんはその時間を利用して、荷物をクロ―クに預けに行った。本当は列を離れたらダメなんだろうけど、常連だから係員に無理を言えるのだろう。

 ぼくの後ろには、8歳くらいの白人の少年が1人で並んでいた。金髪で青い目の、絵に描いたような美少年だ。どうして1人でいるのか気になっていると、彼の母親であろう女性が現れて、2人でなにやら話をしはじめた。少年はつっけんどんな仕草を見せ、母親は心配そうな顔をしたものの、すぐに去って行った。

 きっと、この子はオペラ歌手か演奏者を目指していて、その勉強のために平土間の席に来たのだろう。少し不安そうな様子だが、自分の夢にひたむきなその姿は微笑ましく、どこか1人旅をしている自分と重ねてしまった。もっとも、ぼくにはたいそれた夢や目標などなかったのだが。

 しばらくすると、係員が入口の扉を開けた。だが、それはぼくら立ち見客のためではなく、座席の人々を迎えるためだった。

 そのときに現れた人々が見物だった。高そうな黒のドレスを着た美女らが、モデルのように端正な顔立ちの男性らにエスコートされ、洗練された身のこなしで中に入っていく。誰も彼も高貴な雰囲気を漂わせていて、まるで映画の1シーンを観ているかのようだ。立ち見で、しかもろくな格好をしていない自分が恥ずかしくなるほど、それはそれはきらびやかな光景だった。

「すごいねぇ。華やかだねぇ、きっとどこかの富豪の子供たちなんだろうねぇ」

 彼らの姿が見えなくなった後に、おじさんがひょうひょうと帰ってきた。あまりの落差にずっこけそうになったが、正直ほっとした、やっぱり自分には、こちら側がお似合いなのだろう。

 それからまたしばらく待たされた。さっきの一団を見たことでぼくの気持ちは高ぶり、まだかまだかと気が急いてきた。そんな中、コーラを飲んでくつろいでいたおじさんが、ふいになにかに気づいてポケットを探りだした。あれぇ、ないなぁ。どこに忘れたんだろう。どうかしたのかと尋ねてみるが、おじさんは動揺していて聞く耳を持たなかった。

「もしかしたら、預けた荷物の中に入れっぱなしなのかもしれない。ちょっと、これ持っていて!」

そう言って、おじさんはぼくにコーラを預け、係員に話をつけてまたクロークの方に走って行った。やれやれ、とおじさんの後姿を眺めていると、少年と目が合った。大変だね、と言いたそうに笑っていたので、ぼくも同じように苦笑いを返した。

 おじさんはすぐに息を切らして帰ってきた。彼の手には、なぜか紺色のマフラーが握られていた。

「よかった。やっぱり荷物の中に入れっぱなしになっていたよ」

「マフラーをどうするんですか? 劇場内は十分暖かいのに」

 ぼくがそう尋ねると、おじさんは意味深な笑みを浮かべた。

「席でね、必要になるんだよ。きみの分もこれで大丈夫だから。ふぅ、疲れた。あ、コーラどうもありがとう」

 オペラとマフラーになんの関係があるのだろう。疑問は募るが、ちょうどそのとき係員がぼくらの前の扉を開けた。ようやく入場できるのだ。マフラーの謎も、この後すぐ明らかになるだろう。ぼくは胸を高鳴らせながら、客席へ続く通路を歩いていった。

(長くなったので、後編へ続く)

  

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ウィーンの国立歌劇場の正面階段