豆鳥の巣立ち

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アウシュヴィッツ博物館で考えたこと

アウシュヴィッツ博物館に行ってきた>

2013年11月17日に、ポーランドにあるアウシュヴィッツ博物館に行ってきた。写真だけでは伝えきれないことがいくつもあるので、そのときに思ったこととか、収容所の様子とかをここにだらだらと書いてみる。

 

<なぜアウシュヴィッツに?>

ウィーンから10時間あまり列車に乗って、ポーランドの古都クラクフを訪れた。この街に来たのは、ひとえにアウシュヴィッツ収容所に行くためだった。アウシュヴィッツといえば、第2次世界大戦のときにナチスによって約150万人のユダヤ人や政治犯、捕虜、障害者、ロマなどが殺害された*1 、人類の負の遺産としてあまりにも有名だ。

この場所に来ようと決めたのは、今年の5月にカンボジアを訪れたのがきっかけだった。首都のプノンペンで、ぼくはクメール・ルージュによる大量殺りくが行われたトゥルースレン収容所と、キリングフィールドに足を運んだ*2。そこには、実際に使われた拷問器具や、山のように積み上げられた犠牲者の頭蓋骨が展示されていた。目の前に広がる凄惨で血なまぐさい光景と、辺りに漂うすえた空気にほだされて、これはアウシュヴィッツにも行かないといけないと思わされたのだ。

 

<博物館内の見学>

でも、いざクラクフまで来たものの、そこで何日もうだうだと過ごしてしまった。カンボジアで味わったのと同じ重苦しい気分にさせられると思うと、なかなか行く決心がつかなかったのだ。重い腰を上げたのは、ポーランドの滞在最終日のことだった。片道12ズウォティ(約360円)の運賃でバスに乗り、約2時間かけてようやくアウシュヴィッツ博物館に着いた。

博物館内は入場無料だった。多くの人は有料の英語のツアーに申し込むようだったが、英語だとろくに理解できないだろうから、ぼくは売店で日本語のガイドブック(5ズウォティ、約150円)を買ってそれを手に見て回ることにした。

アウシュヴィッツは2つの収容所に分かれている。「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」と書かれた正門がある第1収容所オシフィエンチムと、煉瓦造りの「死の門」に向けて線路が延びる第2収容所ビルケナウだ。来場者はまずオシフィエンチム内を見て回り、その後無料のシャトルバスで約3キロ離れたビルケナウに向かうことになる。

オシフィエンチムでは、かつて監房であった建物内に収容者の髪で織られた布や、何万枚もあろうかという彼らの証明写真などの資料が展示されている。来場者はそれらを1棟1棟見て回る。建物内はどこもせまくツアーの参加者が大半で常に人でごった返しており、ゆっくりと見学するのは難しかった。処刑場やガス室、鉄条網などもそのまま残されているが、一部は老朽化のため再現されたものも含まれているようだ。

 

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 オシフィエンチム死の壁。銃殺による処刑が行われた。

 

なお、ガイドブックやツアーで紹介されるルートでは省略されるけど、欧州諸国のホロコースト犠牲者の展示も行われている。それぞれ独自色を出しており、たとえばオランダ館ではアンネ・フランクの紹介がされているが、基本的に解説文は自国の言語で書かれていた。ハンガリー館にいたっては現代アートを用いており、さっきまでの静謐な雰囲気とはまったく異なる近未来的な印象を受けた*3。正規のガイドでは紹介されないためか、どこも来場者はまばらだった。

次に、ビルケナウ。有名な死の門をくぐると、総面積175ヘクタールに及ぶ広大な敷地が広がっている。もともと300棟以上のバラックがあったようだが、ほとんどが破壊され、現在は60あまりの囚人棟だけが残されている。死の門からしばらくまっすぐ歩くと、瓦礫と化した焼却場、そして国際慰霊碑にたどり着く。慰霊碑の下には、20ヶ国もの言語で書かれた碑文が置かれていて、いくつかの花がたむけられていた。

 国際慰霊碑を見た時点で、11月の閉館時間である16時に迫っていたので、そこでオシフィエンチムまで戻り、バスに乗ってアウシュヴィッツを後にした。滞在時間は3時間半ほどだった。それくらいでだいたい見て回れるが、隅から隅まで巡れば丸一日かかるだろう。

 

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 ビルケナウの死の門

 

アウシュヴィッツに思わず拍子抜けした>

11月のポーランドは、この時間帯でもうすっかり暗くなってしまう。バスの窓の外に広がる暗闇を眺めながら、ぼくはさっき目に焼きつけたアウシュヴィッツの光景を振り返ってみた。

けれど、そのときのぼくは戸惑っていた。アウシュヴィッツに対して、来る前に抱いていたものとはだいぶ異なる印象を受けたからだ。

語弊を覚悟で言うなら、「拍子抜けた」のだ。悲しみとか恐怖とか怒りとか、そういった分かりやすい感情はあまり湧かず、あぁここがアウシュヴィッツなんだなぁ、という学校の作文なら間違いなく先生に×をつけられるような中身のない感想を覚えたのだった。

拍子抜けたのは、自分の期待が裏切られたからか? だとしたら、自分は何を期待していたのだろうか? ポーランドを離れ、日本に帰国してからも、どうして自分がなんの感情も抱けなかったのかをずっと考えてみた。

いまもまだ、十分な答えにはたどり着いていない。でも、それを考察してみることで、70年前の惨劇の場であるアウシュヴィッツの現代における位置づけや、従来の視点とは異なるなにかしらの可能性を導き出せるのではないだろうか。

そのようなことを踏まえた上で、ぼくが拍子抜けしてしまった理由を考えてみた。

 

<展示内容がシンプルであること>

 ひとつは、展示内容がシンプルであることが挙げられる。収容者の遺品や痩せ細った彼らの写真など、直接的な資料は置かれているが、他の博物館によくある再現映像やおどろおどろしいBGMなどの演出は一切ない。それは、強制収容所に関する展示が開始された1955年から見学コースや展示内容が基本的には変わっていないこと、当時の状況をそのまま残すという博物館の方針が関係している。

日本の金のかかった博物館に慣れていたぼくにとって、脚色がほとんどなく、来場者の想像力に依拠したアウシュヴィッツの展示内容は、思わず物足りないという印象を受けてしまった。英語であったとしても、聴覚から訴えかけるガイドに参加していれば、その印象も変わっていたかもしれないが。

実はアウシュヴィッツを訪れる前に、クラクフにあるシンドラーの工場にも足を運んでいた。ここは映画「シンドラーのリスト」の主人公オスカー・シンドラーが運営していたかつてのホーロー工場で、現在は1938年から1945年のクラクフの歴史を紹介した博物館となっている。こちらは他の博物館と同様、映像や模型を多用しており、再現されたシンドラーの執務室もある。アウシュヴィッツの展示がシンプルだという印象を受けたのは、そういった非常に分かりやすい作りの博物館の後に行ったのも関係しているだろう。

 

アウシュヴィッツが過去ではなく歴史であるということ>

また別の理由は、自分の中でアウシュヴィッツでのホロコーストが「過去」ではなく「歴史」のカテゴリーに入りつつある、もしくはすでに入っているかもしれないということだ。

ぼくの独断的な定義だが、過去というのは自分にも関係があると認識できる一方、歴史は遠い昔の他人事として無責任に済ませられる。「記憶」と「記録」の違いだとも言い換えられるだろう。どれだけ長い年月が経ったとしても、現在に多大な影響やヒントを与えうる出来事は、振り返ったときにいつでも見直せる過去であるべきなのだ。

過去と歴史を分かつのは、いくつか要因がある。1つは、物理的な時間の経過。昨日は過去だが、100年前は歴史であるという単純な区分けだ。もう1つは興味関心である。たとえ100年も1000年も前の出来事でも、自分にも関係があることと想像しうれば、それは過去であるといえる。この2つは対応し、時間の経過が興味関心を奪うことも多々ある。

これらに加え、知識の不足も影響している。たとえ昨日起きたことでも、何が起こったのかの実態を知らなければ、すぐに忘れ去られ、自分とはなんの関係もないと見なしてしまう。たとえ興味があったとしても、だ。

ぼくが拍子抜けしたのは、この知識不足があるのかもしれない。アウシュヴィッツに興味はあっても、それについてほとんど知らなかったのだ。人々がどのような経緯でここに収容されたのか、どのような生活を過ごしていたのか、どのようにして命を絶たれたのか。ある程度の予習はしてきたつもりだったが、ガイドブックを読んではじめて知ったことも多く、カポー*4やコルベ神父*5といった存在も帰国してから改めて知った。

実際に収容所まで来たのに、どこか感情が上滑りしてもの思いにふけることができなかったのは、そのせいなのかもしれない。たとえ本心ではないとしても、ここで起きた惨劇が自分とはほど遠い歴史上の出来事であると感じてしまった。知識不足が、この場所で必要とされる想像力をそいでしまったのだ。

 

<空があまりにもきれいであったこと>

晴れ渡った空。ポプラ並木が、太陽の光を乱反射させている。無数の来場者たちはカメラを持ち、慌ただしく写真を撮っている。<引用者中略>一瞬、ここが「人類の歴史に刻まれた惨劇の地」だということを忘れそうになる。*6

 社会学者の古市憲寿氏は、アウシュヴィッツ博物館を訪れた際にこう記述している。そのときの季節は夏だったそうだが、ぼくが訪れた秋の日も空は快晴だった。だからこそ、ぼくは困ってしまった。

どうせなら、霧が立ち込めていたり、どんよりとした雲に覆われていたりしてほしかった。そうすれば、恐ろしい、悲しいといった、まっとうな感想を抱けたはずだ。でも、空はあまりにも高くきれいで、くっきりとした飛行機雲も浮かんでいた。イメージしていたアウシュヴィッツとはほど遠く、ぼくはすんなりとまっとうな感想を抱くことができなかったのだ。

思い返せば、キリングフィールドを訪れたときも、空は青く透き通っていた。東南アジアはいつもこうだからとそのときはたいして不思議にも思わなかったが、今回アウシュヴィッツの空を目の当たりにして、それら2つの場所の晴天は、ある真理を物語っていることに気づいた。

それは、虐殺や戦争、災害などの惨劇は、ごく普通の空の下、ごく当たり前の日常の中で起こるということだ。なにも曇り空や冷たい空気など、惨劇にふさわしい環境が用意されるのではない。70数年前のある日も、こんな晴れた天気の下で処刑が行われていたのだ。

わざわざ指摘するのも馬鹿らしいほど当たり前のことだが、いざ脚色のあまりない博物館の展示や、似つかわしくないほどの青空を前にすると、いかに自分がかくあるべき姿のアウシュヴィッツを期待していたかが分かった。

そもそも、ぼくが持つアウシュヴィッツのイメージは、映画や本で描かれた残酷な描写の数々だった。それらは少なからず受け手の情感を揺さぶる演出が盛り込まれているため、喚起される怒りや悲しみもまた、強調され分かりやすい感動になりがちだ。

 だが、ぼくが実際に現地で感じたのは、そういった既定された感情ではなかった。いままで感じたことのない、怒りであり怒りでなく、悲しみであり悲しみではないものだった。そして、止めどなく、とらえようのない漠然とした心地にもとらわれた。とっさに拍子抜けたと感じたその心地は、言葉にするなら、人間の存在の不安定さだったのかもしれない。

 

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 オシフィエンチムの青空

 

<観光地としてのアウシュヴィッツ

 以上のような視点から自分が拍子抜けしてしまった理由を考えてきたけど、それは単なる自己弁護に過ぎず、自分の思慮がかけていただけなのかもしれない。

当日、こんなこともあった。ぼくが「ARBEIT MACHT FREI」の正門の前にいると、ふいにスリランカ人の夫婦に記念撮影を頼まれたのだ。いくらなんでも不謹慎じゃないかと思いつつ、ぼくは寄り添う彼らのためにシャッターを押してやった。撮り終えると、お前も撮ってやるとご主人に言われたけど、さすがに遠慮して彼らと別れたのだった。

そのとき、ぼくは夫婦と比べて自分が場をわきまえていると考えていた。でも、よくよく考えたら、周りのヨーロッパ人にとったら、写真を撮っているぼくも思慮の浅いアジア人に見えたのだろう。もしそのとき犠牲者の遺族がいたら、などと想像するまでもなく、軽率な行動だったと言えるのかもしれない。

 だが、どうしてここが惨劇の場だと知っているはずなのに、その夫婦がツーショットを頼み、ぼくも快く撮影に応じてしまったのか。それは、アウシュヴィッツが世界的に名の知れた、年間143万人もの来場者を誇る*7「観光地」でもあるという事実が関係しているだろう。そこが厳粛にすべき場所であるのは嫌というほど意識していたけど、心の奥底に物見遊山の気分があったのかもしれない。「やべぇ、アウシュヴィッツ来ちまった!」みたいな感じに。

 負の遺産を観光地としてどう考え運営していくかは、最近ダークツーリズムという研究が話題となっている*8。この文章と密接に関わる分野だけど、そこを掘り下げて上手くまとめる自信がないので、紹介だけにとどめておく。何十年も前の人々の傷跡を歴史ではなく過去としてとどめるには、こうした観光学の分野の知見も必要とされるのだ。

 

<記憶の継承 まとめの代わりに>

ここまでだらだらと書いてきたけど、ぼくがアウシュヴィッツ博物館で1番思い知ったのは、自分がこの場所についてなにも知らなかったということだ。帰国してから、本格的に書物を漁ってアウシュヴィッツホロコーストのことについて勉強した。順序が逆ではあるが、現地を訪れたからこそそうしようと思えたのも確かだ。

そもそも、日本人であるぼくはアウシュヴィッツを世界史の授業で学んできた。だが、よくよく思い返してみれば、授業でアウシュヴィッツのことをちゃんと教わった記憶はない。時間の都合で、だいたい20世紀に入ったあたりから駆け足で通り過ぎてしまうからだ。ワイマール憲法までは習ったけど、その問題点につけ入ってナチスが台頭としたという流れを、ぼくは学校ではなく本やテレビなど別の場所で知ったはずだ。

 そういった教育状況だと、知識だけでなく興味を持つきっかけすら失われて、過去の出来事が入試に出る歴史事項の1つに過ぎないと思ってしまう人が増えてしまいかねない。だが、それでは過去を学ぶことの意義が破たんしてしまっている。授業時間が足りないのだとしても、じっくりと腰を据えて学ぶ機会を別個設けるべきだろう*9。アウシュヴィッツ博物館のあるポーランドに目を向ければ、来場者の約半数は現地のポーランド人で、そのほとんどは社会見学の一環とした若者なのだから*10。

 ホロコーストや戦争、先の東北の震災など、語り継がれるべき過去は山のようにある。記憶を風化させないようにするのは至難の業だが、それを継承していくことこそが、犠牲者への追悼でもあり責務でもある。だが、その継承は一義的なものや押しつけであってはならない。真実は語り得るものではなく、多様な解釈こそが次世代につながるヒントや、過ちの再発防止を生み出すのだ。

だから、ぼくは拍子抜けした自分に戸惑う一方、安心もした。これでまだ考えるのを止めなくて済む、と思えたからだ。恐ろしい、悲しい、という感情だけで思考停止するのではなく、よく分らない心地だからこそ、ここで起きたことについてもっと深く考えてみようと思えたのだ。

その点で、はるか遠い地に住む日本人の若者にそれを促したアウシュヴィッツ博物館は、記憶の継承という役目をみごとに果しているといえるだろう。

 

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 ビルケナウの夕空

 

<注記>

*1 現在もアウシュヴィッツの正確な死者数は特定されておらず、ここでは1995年に規定された数を用いる。ビルケナウにある記念碑にもこの数が刻まれている。

*2 カンボジア共産主義政党で、書記長であるポル・ポドが政権を握った後、カンボジア全土で100万人以上の国民が虐殺された(こちらも正確な死者数は特定されていない)。

*3 その他イタリア、ベルギーユーゴスラビアオーストリアチェコスロバキアポーランドなどの諸国に加え、欧州ロマの展示もされていた。

*4 収容者の中から選ばれた労働監督者。ナチスの親衛隊に従い、同胞であるはずの収容者らを厳しく罰したという。

*5 マキシミリアノ・マリア・コルベ(1894~1941)ポーランド生まれのユダヤ人神父。アウシュヴィッツで他の収容者の身代わりとなり殺害された。

*6「誰も戦争を教えてくれなかった古市憲寿著(2013年 講談社)p49~p50より引用

*7「Rekordowa liczba osób zwiedziła w 2012 roku Muzeum Auschwitz」onet.kultura

http://m.onet.pl/wiedza-swiat/kultura,hy78v 2013年11月28日閲覧)

*8 「日本におけるダークツーリズム研究の可能性」井出明著

http://jafeeosaka.web.fc2.com/pdf/B5-1ide2.pdf  2013年11月28日閲覧)を参照。

*9 ぼくの通った公立の中学校では、平和学習の一環として、修学旅行で鹿児島の知覧特攻平和会館を訪問した。ついでに砂風呂に入るという渋い行程だったが、いま振り返れば有意義な時間だった。

*10 2011年の来場者約140万人のうち、約61万人がポーランド人である。また、年齢別に見ると、14~25歳の割合は全体の74パーセントに及ぶ。

(「新訂増補版 アウシュヴィッツ博物館案内」中谷剛著(2012年 凱風社)p19~p20を参考。)